道真がこれらの詩を編んだのは、讃岐守時代のことです。五言律詩の連作で、「冬がきて寒さがいっそう早く感じられるのは誰だろうか?」という問い掛けのもと、民衆が困窮するようすを活写し、その内容から山上憶良の「貧窮問答歌」と並び称される傑作です。
この詩では、苦境に立たされた民衆のうち、10通りの立場とその窮状を訴えていますが、そこに現役の行政官ならではの着想と修辞が使われている点は見逃せません。
まず、題材となった者たちを書き出してみます。
(1)走還人(逃亡先から本籍地へ送り返された良民〈課税対象となる一般国民〉)、(2)浪来人(他国から逃亡してきた者)、(3)老鰥(年老いた寡夫)、(4)孤児、(5)薬戸の人(国の薬草園の労役を担う者)、(6)駅子(駅亭の労役を担う者)、(7)船子(雇われ船員)、(8)漁師、(9)塩売り、(10)樵人(木こり)。
(7)〜(9)は、瀬戸内海の重要な交易港であった鵜足津を擁し、塩飽諸島はじめ製塩好地が多い讃岐の土地柄が窺えます。また、同国は地力豊かな土地であり、逃走民である(1)や(2)が食い扶持を求めて流入したことは想像に難くありません。つまり、讃岐国司としての立場から題材をピックアップしているのです。
また、(1)走還人と(2)浪来人を違う属性としています。両者はともに口分田から離れた民という点で共通しますが、律令法上の違いがあり、それをはっきりと書き分けているのです。
さらに困窮の原因として「戸を案じても新口なく」、つまり戸籍がまともに改められていない点を指摘しています。こうした言葉を道真は、行政用語としての意味も含めた高度な修辞として使いこなしており、問題点の認識も含めて、行政執行者としての姿勢で一貫しています。
では実際、当時の国家財政はどんな状況にあったのかを見てみましょう。
道真赴任時の讃岐の財政は、非常に厳しい状況にあったといいます。その要因として、大きくふたつの点があると考えられます。
ひとつは、虚偽を記載した戸籍(偽籍)の横行です。奈良時代からはじまった班田収授法は、まず良民の戸籍を作り、そこに書かれた性別や年齢に基づいて班田を行なうとともに、庸調(米や布、特産品などで納められ、中央政府の財源となった)を負担する課丁(17〜65歳の男子)を定め、課税を行ないました。
そこで、税を逃れるために戸籍の記載を偽り、男子を女子、また年齢を幼児か老人と偽ることは早くから行なわれていました。
こうした偽籍がまかり通ったために、平安初期では、全人口に対する課丁の割合は1割程度。律令税制では、課丁の人頭税として税物を得ることが基本ですから、偽籍による課丁数の激減は、国家財政に直接的な打撃を与えたのです。
そして、もうひとつの要因が、班田が行なわれないことによる田地の混乱と、実力者による土地の集積でした。
本来、班田収授法では6年ごとに対象者へ田を与えるとともに、死亡者などの田を収公します。が、班田が長年行なわれずに所有者がおらず、宙に浮いた土地が増え、また田と田の境界が不明確になりました。そこが国家の配った公田なのか、私人の所有となった私田なのか。また、課税対象の輸租田なのか、租税の免除が公的に認められた不輸租田なのかが、曖昧になっていきました。
そこに目を付けたのが、富豪の衆や力田の輩と呼ばれる豪農層です。彼らは財力によって困窮した良民から土地を買い上げたうえで小作人とするなど、私的な土地支配に勤しんでいました。
こうした豪農層と、土地の利権を得ようとする京の貴族や大寺社などが結ぶことで成立したのが初期荘園です。当然、国司は彼らの不法行為を摘発しようとしますが、田の種別が分からないうえ、権門の圧力を退けるほどの権限はなく、引き下がる他ありません。
これらの要因により、諸国・朝廷の税制は崩壊に向かっていました。各国から内裏への当時の報告書には「正税用尽」(国の財政が尽きました)という言葉が頻繁に登場しています。問題は、決して讃岐だけのことではありませんでした。
更新:11月22日 00:05