それでも朝廷の財政が破綻しなかったのは、公的には認められていない収税法があったためです。この方法を道真は把握しており、「検税使派遣の可否を改めて議ることを請う奏状」(『菅家文草』巻9の602)で触れています。
同奏状によると、諸国では国司による公的な稲の貸付(公出挙)の半分を豪農層に、つまり民間委託するのが慣例になっていたといいます。公出挙は課丁の申し出がなければ貸し付けを行なうことができない制約があり、諸国財政の根幹を担っていながら、その運用は不安定にならざるを得ないという問題点がありました。
そこで、一旦民間にまとめて引き渡したうえ、私的な出挙として富豪層が小作人などに貸し付けることで、制約をすり抜ける方式が考え出されたのです。道真はそれを承知しており、公出挙を確実に運用できることや現実的に収税に役立っている観点から、容認する立場を取っています。
「里倉負名」と呼ばれるこの在野の収税方式は、のちに公的な徴税体系に組み込まれます。同時に、多様な税物を米で代納することも認められ、やがて租庸調など複雑な律令税制を改革し、田租=年貢米を基本とした日本独自の税制へと変わるきっかけとなりました。
実際のところ、こうした改革は道真配流の直後に、政権を握っていた藤原時平によって断行されたもので、道真の関与を示す資料はありません。が、これほどの大改革を何の準備もなしに実行できたはずはなく、民政に通じ、実務にも詳しい公卿の意見を取り入れなかったとは考えにくいでしょう。
もしかしたら、道真は改革を主導する立場にいたからこそ藤原氏の陰謀の矛先を向けられ、功績を奪われたのではないか...。道真が残した文書や、その経歴と異例なまでの出世、そして悲劇の左遷を思えば、そんな想像も許されるのではないでしょうか。
さて、この改革は後世にどのような影響を与えたのでしょう。
ひとつは、明治維新まで続く年貢米による徴税方式を生んだこと。また、改革の実効性を高めるために国司の権限が強化されましたが、これが坂東における平氏のような、土着化した受領の出現、その郎等を母体とした武士団の形成にもつながりました。
何より、息を吹き返した国家財政は貴族社会を富ませ、道真が大宰府で没した延喜3年(903)から100年の時を経て花開いた、王朝文化の経済基盤となりました。だとすれば、道真が「春を忘れるな」と言った"花"は、時代を超えて満開になったと言えるのかもしれません。
更新:11月22日 00:05