源氏山公園(鎌倉市)の頼朝像
流人の身から征夷大将軍へと上りつめた頼朝。その周囲にいた女性としてまず思い浮かぶのは、正室・北条政子ではないだろうか。
しかし、頼朝の人生を語る上で、政子以外にも忘れてはいけない女性たちがいる──。
※本稿は、『歴史街道』2022年3月号から一部抜粋.編集したものです。
【中丸満 PROFILE】
昭和47年(1972)、広島県生まれ。出版社、編集プロダクション勤務を経て著述業。日本の古代・中世史を中心に書籍や雑誌、ムックなど幅広く執筆活動を行なっている。著書に『平清盛のすべてがわかる本』『源平興亡三百年』『鎌倉幕府と執権北条氏の謎99』、共著に『よくわかる平清盛の真実』などがある。
日本史の教科書に中世の女性が登場することはまれであり、特に政治史についてはほぼ北条政子と日野富子に限られる。
しかし、「歴史の陰に女あり」といわれるように、偉大な政治家の背後にはそれを支えた女性がいるものだ。
流人から身を起こし、鎌倉幕府を築いた源頼朝も、多くの女性たちに助けられた。政子のような女傑ではなくとも、それぞれが陰になり日向になり頼朝を支え、武家政権の草創という覇業の実現に導いたのである。
頼朝の母・由良御前は熱田大宮司・藤原季範の娘である。熱田大宮司家は、古くから尾張国造の系譜を引く尾張氏が世襲していたが、季範の父が尾張氏の婿となり大宮司職を継いだ。
頼朝が兄の義平・朝長をさしおいて義朝の嫡男とされたのは、ひとえに母の出自による。兄の母の実家が三浦氏や波多野氏など、東国の豪族に過ぎなかったのに対し、季範はれっきとした四位の中級貴族であり、一族は鳥羽法皇の皇后・待賢門院璋子や後白河上皇の近臣などとして活躍した。
義朝が当時の河内源氏として破格の下野守に任官できたのも、こうした中央政界との縁故が大きかったのである。
生前の由良御前の事績はほとんど伝わっていないが、頼朝が蔵人として仕えた上西門院統子の女房だったと推測されている。
姉妹に、同じく上西門院に仕えた千秋尼や待賢門院女房の大進局、兄弟に大宮司職を継いだ藤原範忠、頼朝が伊豆に移送される際に自身の郎従を付き添わせた園城寺の僧・祐範などがいる。
由良御前は、平治の乱の9ケ月前の保元4年(1159)3月に亡くなった。享年は不明だが、義朝の悲劇的な最期を知ることなく亡くなったのは、不幸中の幸いであったといえるかもしれない。
平治の乱で捕らわれた頼朝は、13歳とはいえ源氏の嫡男であり、武家の慣習として処刑される運命にあった。これを救ったのが平忠盛の正室で清盛の継母である池禅尼だった。
『平治物語』によると池禅尼は、頼朝が早世した実子の家盛に似ているとの理由で助命を嘆願したという。
この時代、当主亡き後の正室の権威は大きく、清盛も継母の願いをむげにできなかった。逃亡中の頼朝を捕らえたのが池禅尼の子の頼盛の家臣だったことも、頼朝の処分に対する禅尼の発言権を強めたといわれる。
また、禅尼による嘆願の背後に、公家勢力の圧力があったともいわれている。頼朝が仕えた上西門院やその弟の後白河上皇、頼朝の叔父・祐範らの要請があったというのだ。清盛自身も、彼らに恩を売るチャンスとみて助命に応じたと推測されている。
さらに近年の研究によると、頼朝は配流先の伊豆でも、池禅尼の庇護下におかれていた可能性が高いとされる。
北条時政の後妻となる牧の方の父(兄とも)・牧宗親と池禅尼は兄弟姉妹の関係にあったといわれ、牧氏を通して頼朝が何らかの支援を受けていた可能性があるというのだ。
平家嫡流であるという意識の強い頼盛が、将来の清盛との争いを見越して頼朝の身の保全を図ったという説もある。平家内部にきざし始めていた政治的対立が、頼朝の運命を変えたのかもしれない。
更新:11月22日 00:05