鎌倉の地で、源頼朝の手によって誕生した幕府。従来、1192年とされてきた開幕年に、異論が唱えられているように、その実体には不明な点が少なくない。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代考証を担う坂井孝一氏に、鎌倉時代について解説していただこう。
※本稿は、「歴史街道」2022年2月号の特集1「北条義時 源頼朝を支えた男」より、一部を抜粋編集したものです。
源頼朝がなぜ東国を拠点としたのかというと、それは平治の乱で敗れたあと、頼朝が流された場所が東国の伊豆国だったからです。流されたのが中国地方や四国、あるいは九州だったら、別の形になったでしょう。
では、なぜ頼朝が相模国の鎌倉に進出したのか。それは鎌倉が「源家ゆかりの地」だったからです。
永承6年(1051)に起こった前九年の役の際、河内源氏の源頼義は、奥州へ下向するにあたって戦勝祈願をした石清水八幡宮を、鎌倉に勧請して、由比若宮を建てました。また、後三年の役に際しては頼義の子の義家が、この由比若宮を整備しています。
さらに、頼朝の父・義朝は京都に出るまでは東国で活動していて、鎌倉に居を構えたことがありました。
このように、鎌倉は祖先からの由緒がある地。東国で挙兵した頼朝が、そこを拠点にするのは自然な選択だったといえるでしょう。
しかしながら頼朝は、富士川の戦いで平家軍が撤退する際に、それを追って上洛しようとし、周囲に反対されています。
つまり、当時の頼朝の意識としては、東国を本拠地とした政権を樹立しようといったものではなく、やはり京都で一旗揚げたい、ということだったのでしょう。
しかし、東国の武士たちからすれば、自分たちの所領を守りたいがために頼朝を担いでいるので、この段階で京に上るというのは賛成しかねる。
頼朝は手勢を持っていませんから、彼らに離反されては、その立場を維持することができなくなります。ですから、京都に思いを馳せながらも、鎌倉を本拠としていたというのが真相だと考えられます。
源頼朝(鎌倉殿)と御家人は主従関係にありました。それは「御恩」と「奉公」で結びつく双務契約的なものでした。
つまり、挙兵当初の頼朝は、御家人たちがいなければ何もできない存在です。
一方、御家人たちからすれば、貴種である鎌倉殿を立てることによって、平家など、他の軍事組織に対して正統性を主張でき、合戦に勝てば所領を増やすことができました。さらに、御家人同士の土地の争いなどに裁定を下してもらうこともできます。
当初はこのような、お互いに利用し合う関係でした。
ところが、時を経るにつれ、その力関係が変化していきます。
たとえば、上総国で大勢力を持っていた上総広常という豪族がいました。石橋山で敗れた頼朝が復活するのに貢献した人物ですが、その存在が脅威となったため、頼朝は寿永2年(1183)に誅殺してしまいました。また翌年には、甲斐源氏の一条忠頼も、力を増してきたということで殺してしまいます。
これは、「鎌倉殿はただ所領を与えてくれるのではなく、反旗を翻せば殺されてしまうかもしれない、脅威となる存在である」という意識を植えつけるため、敢えて行なったものだと考えられます。
さらに、弟の源義経や源範頼をトップにして編制された軍の勝利によって、頼朝の存在感は一段と大きくなっていきました。
こうしたことを積み重ねていった最終的な到達点が、文治5年(1189)の奥州藤原氏(平泉藤原氏)の滅亡です。
すでに頼朝は全国の御家人に動員をかけることが可能になっていて、自ら大軍を率いて出陣し、奥州藤原氏はひとたまりもなく潰されました。
このときに頼朝は、藤原泰衡を晒し首にして、前九年の役で源頼義が行なったのと同様の儀式を行ないます。それによって、自分はあの名高い源頼義の正統な後継者であるということを演出してみせたのです。
全国の軍事統率権を掌握した頼朝は、この戦いで自分だけが唯一の武家の棟梁であることを、武士のみならず、朝廷にも知らしめたことになります。
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更新:11月24日 00:05