院の近臣でもあった熱田大宮司家の藤原季範の娘を母として、源頼朝は京都で生まれ、14歳になった永暦元年(1160)の3月まで京都で育ちました。
その間に、13歳で後白河院の姉である上西門院の蔵人になり、右兵衛権佐という官職にあずかっています。
思春期になる直前まで、「貴族社会の一員」として暮らした人間ですから、朝廷を肯定的に捉え、良好な関係を築こうとするのは当然であり、頼朝は朝廷の中で高い地位に就くことを、究極の目的にしていただろうと思います。
奥州藤原氏を滅ぼした翌年の建久元年(1190)に上洛を果たした頼朝は、後白河院と直接会談を繰り返し、権大納言、右近衛大将という官職を賜ります。
この時期に摂政を務めていた九条兼実と頼朝が会談した際、「朝(朝廷)の大将軍となったことを誇りに思う」と話したことが兼実の日記(『玉葉』)に記されています。ここに、朝廷に対する頼朝の姿勢がうかがえるでしょう。
後白河院が亡くなった建久3年(1192)に、頼朝は征夷大将軍に任じられました。
かつては征夷大将軍を、「朝廷と一線を画して東国を従える権力を握った大将軍」と捉え、それを頼朝が強く望んでいたという解釈がなされていました。
しかし、2000年代の初めに当時の朝廷の議事録が発見され、頼朝が求めたのは、東国で大きな権威のあった「鎮守府将軍」よりも格上と見なされる「大将軍」だったことが明らかになっています。
頼朝の申請を受けた朝廷は、ただの大将軍では官職として成り立たないため、上につける言葉としていくつかの候補を検討し、坂上田村麻呂の吉例がある「征夷」を選びました。そして、頼朝はそれを喜んで受け取ったのです。
頼朝は朝廷と対抗し、東国の独立を目指して、武士のための独自の政権を打ち立てようとした、というイメージで語られがちですが、そうではありません。
頼朝の時代の鎌倉幕府と朝廷は、公武協調という方針で運営されていたと結論づけることができるでしょう。それは、二代目の頼家や三代目実朝も同様です。
源頼朝が最初につくったのは侍所で、治承4年(1180)のことです。
そのあとに源平合戦(治承・寿永の内乱)が展開し、侍所は軍司令部としての役割を担います。軍が遠征するときは、侍所別当の和田義盛や侍所所司の梶原景時が軍奉行になるなど、軍事組織である幕府にとって、侍所は不可欠なものとして機能しました。
また、頼朝が命令を下す際の文書作成といった事務を担う組織として、公文所 (のちの政所)、さらには裁判の訴訟事務を扱う組織として、問注所が設けられました。
平家や奥州藤原氏を滅ぼしたあとは、軍司令部よりも、命令書の作成や裁判事務を担当する役所のほうが重要になったのはいうまでもありません。
中でも重きを置かれるようになったのが政所です。政務の中心機関として、行政・司法の事務を担当し、文書を発給しました。
大江広元などの京下りの官人に加えて、武士の中でも京都とのつながりがあった者や、教養のある武士たちが政所寄人などに任じられています。
地方組織としては、「守護」と「地頭」があります。
平家滅亡後、源義経が反旗を翻したことを口実に、守護・地頭を全国に設置する勅許を、頼朝は朝廷に強く求めました。
この点に関し、朝廷の正式な許しの出た年が文治元年(1185)であったため、1185年を鎌倉幕府の成立年とする説があります。
しかし、治承・寿永の内乱があった段階で、すでに頼朝は、勲功のあった武士に、没収した敵方の所領を与えて地頭としています。また、守護に関しては、平家を追討するために、守護の前身となる「惣追捕使」が置かれましたが、守護自体は奥州藤原氏が滅びた後の建久2年(1191)にならないと設置されません。
ですので、文治元年を境として分けるのは、必ずしも正確ではないと言えるでしょう。
更新:11月24日 00:05