政子の気性の激しさもあって頼朝には恐妻家のイメージもあるが、「英雄色を好む」のたとえどおり、頼朝もそれなりに好色であった。
政子と出会う前、頼朝は美女の聞こえの高い伊東祐親の三女(八重姫)のもとに通い、千鶴という男子をもうけた。
大番役のため京にいた祐親は、帰国後にこれを知ると烈火のごとく怒り、3歳の千鶴を淵に沈めて殺してしまった。そのうえ、三女を伊豆の武士に嫁がせ、頼朝に夜討ちをかけて殺そうとした。
頼朝はすんでのところを祐親の子・祐清に救われ、北条時政のもとに逃れたという。
祐清は妻の母の比企尼から頼朝の援助を託されており、ここでも頼朝は乳母の縁によって命を救われたことになる。
次に頼朝が恋愛で騒動を起こすのは、政子が頼家を懐妊していた寿永元年(1182)のことであった。
この頃、頼朝は亀前という女性を寵愛して、中原光家の小窪(神奈川県逗子市)の邸宅に住まわせていた。良橋太郎入道という人物の娘で、頼朝の配流時代から側に仕えていたという。
容姿が優れているだけでなく心も柔和で、この年の春頃から関係をもち、日を追って寵愛が増したと『吾妻鏡』は記す。
政子が亀前の存在を知ったのは、同年11月のことである。父・時政の後妻・牧の方の告げ口によって発覚したという。
怒った政子は牧宗親に命じて、亀前が移り住んでいた伏見広綱の家を破壊。広綱は亀前を連れて脱出し、大多和義久の鐙摺(逗子市・葉山町)の邸宅に逃れた。
怒り心頭の頼朝に呼ばれた宗親は、ひたすら地面に頭をこすりつけて謝った。しかし、頼朝は許さず、「御台所(政子)を重んじるのは神妙だが、なぜ内々に報告しなかったのだ」となじり、宗親の頭髪の髻を切るという恥辱を与えた。宗親は泣いて逃亡したという。
だが、事件はこれで収まらなかった。時政がこの処置に不満を抱き、本拠地の伊豆に帰ってしまったのだ。頼朝もこれを引き留めることはできず、父に従わないで鎌倉に残った北条義時の律義さを誉めることしかできなかった。
その後、亀前はふたたび中原光家の邸宅に移り住んだ。政子の怒りをしきりに恐れていたが、頼朝の寵愛は日を追って募ったため、仕方なく従っていたという。
そんな夫に対する腹いせであろうか。それから間もなく、亀前をかくまった伏見広綱が政子の勘気をこうむり、遠江に追放されたのは不幸なことであった。
一連の騒動は、単なる恋愛関係のもつれにも見えるが、頼朝自らが政権を掌握するにあたって、北条氏の存在が壁となることをまざまざと見せつける事件になったともいえよう。頼朝が御家人に対して隔絶した地位を確立するのは、まだ先のことであった。
亀前の事件が発覚する直前、頼朝は、伏見広綱を通じて新田義重の娘にも艶書を送っている。
しかも、この女性は頼朝の異母兄・義平の後室であった。この時期の頼朝は、短期間に関東を制圧したことで、やや緊張感に欠けていたきらいがある。
さいわい、義重の娘は頼朝の申し出を受けずに父に報告した。義重は政子に知られることを恐れて、娘を別の者に嫁がせたため、頼朝の怒りを受けたという。
更新:11月22日 00:05