鎌倉の地で、源頼朝の手によって誕生した幕府。従来、1192年とされてきた開幕年に、異論が唱えられているように、その実体には不明な点が少なくない。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代考証を担う坂井孝一氏に、鎌倉時代について解説していただこう。
※本稿は、「歴史街道」2022年2月号の特集1「北条義時 源頼朝を支えた男」より、一部を抜粋編集したものです。
北条時政に始まり、義時、泰時と続いていく「執権」は、政所と深い関係があります。
頼朝の時代、「将軍家政所」と呼ばれた役所の長官である「別当」は、大江広元だけでした。しかし、二代頼家の代になって、広元の他に時政も就任し、複数制となります。
数はだいたい4、5人くらいですが、多いときは9人の別当がいて、その筆頭が当時の言葉で「執権別当」(略して「執権」)です。
頼朝が死んで、頼家が後を継いだとき、北条時政が政所の別当に就任しますが、これにはおそらく、頼朝の妻で時政の娘・北条政子の意向が働いていたと考えています。
当時、家長が亡くなり、跡を継いだ嫡子が若い場合には、亡くなった家長の妻が家の全体を差配するという慣例がありました。ですから政子は、源家の家長として影響力を行使していたはずです。
やがて時政は政所別当の筆頭、「執権」としてふるまうようになります。
時政のときから執権は、源氏一門にだけ認められていた諸大夫(位階が四位、五位の中流貴族)の身分を獲得し、義時は最高で従四位下にまでなっています。
一方、一般の御家人は位階が六位止まりで、これがいわゆる「侍」です。侍所別当の和田義盛も六位に相当する左衛門尉しかもらっていません。
その点で、執権は「侍」である御家人たちの一段上に立っていたといえるでしょう。
建久10年(1199)1月、源頼朝が急死し、嫡子の頼家が鎌倉殿になったときに「十三人の合議制」が設けられ、暗君だった頼家から決定権を奪った、と従来はいわれてきました。
しかし近年は、頼家は決して暗君ではなく、頼朝ほどではないにしても、イニシアチブをとって政治を行なっていたことが指摘されています。
そもそも頼家が暗愚だとされてきた根拠として、蹴鞠ばかりやっていて、政治に無関心だったというものがあり、北条氏の命令で編纂された『吾妻鏡』では、意図的に蹴鞠の記事を並べているようにさえ見えます。
しかし当時は、和歌や蹴鞠などは国家を安泰に導くためのツールの一つでした。中国に「礼楽思想」というものがあり、「礼」=儀礼と「楽」=音楽をともに尊重し、それらが一体化することによって国家が治まるという考え方です。
ですから、天皇や貴族らは音楽を自らやりますし、和歌や蹴鞠によって神仏を喜ばせて、国家を安泰に導くというのが、当時の重要な役割の一つだったわけです。
さらに武士であっても、朝廷と交渉したり、友好関係を築いたりするには、文化的教養は必須でした。ですから、蹴鞠ばかりやって政治に無関心だったというのはあたりません。
また、『吾妻鏡』に「13人の御家人が集まって、頼家が訴訟で決断することを停止した」という趣旨の記述があり、これを根拠にして「頼家は決定権を奪われた」とされていたのですが、より信用のおける別の写本「吉川本」には「決断」ではなく「聴断」を停止するとあります。さらに、「13人以外の人が取り次いではいけない」という記述が続いて出てきます。
つまり、実際には「鎌倉殿は直訴を聞いてはならない。取次役は13人に限定する」ということだったと考えられます。
なぜ、そういう措置が取られたのかというと、頼家は若くて経験も浅いから、御家人たちが支えなければいけない。そのために設けられたのが、13人の取次役だったのでしょう。
また、「十三人の合議制」という言い方が現代では定着していますが、『吾妻鏡』をはじめ、どの史料にも、13人で集まって合議をしたという記述はありません。
更新:11月22日 00:05