正治2年(1200)に討たれた梶原景時の場合、彼は頼朝の側近中の側近で、秘密警察的な役割をして讒言などをしていたため、多くの御家人から嫌われていました。
ですから、その結果ともいえるのですが、源頼朝の死後に起こった有力御家人同士の抗争は、「鎌倉殿に次ぐナンバー2に誰がなるか」、言い換えると「御家人筆頭をどうするか」に関わる争いといっていいでしょう。
それを象徴するのが建仁3年(1203)の「比企の乱」です。源頼家の乳母夫だった比企能員と、源実朝の乳母夫だった北条氏とは、直接対決にならざるを得ず、北条時政が比企氏を滅ぼしました。
さらに元久2年(1205)には、頼朝の挙兵以来、武蔵国で大きな勢力を築いていた畠山氏を時政は滅ぼし、相模国と並んで幕府が最も重視した武蔵国に、影響力を広げます。
しかし、その2ケ月ほど後に、実朝を将軍職から引きずり下ろして後妻である牧の方との娘婿である平賀朝雅に替えようとしたことで、時政は息子の義時、娘の政子に追放されました。
時政に代わって執権となった義時は、残っていた最強のライバル和田義盛を建暦3年(1213)に討って、ナンバー2の地位を確実なものとします。
とはいえ、これらは朝廷や全国を脅かすような出来事ではなく、鎌倉幕府初期の内戦として最大の「和田合戦」でさえも、一地域の紛争にしか過ぎないと考えていいと思います。
建保7年(1219)1月に源実朝が暗殺されたことで、源頼朝以来の、源氏という貴種による鎌倉殿の系統が途絶えました。
そして、亡き頼朝の妻であり、二代、三代の鎌倉殿の生母である北条政子が、実質的な四代目の鎌倉殿になり、幕府のナンバー2は執権の北条義時という体制に移行します。
しかしながら、かつて頼朝は、13歳という若さで右兵衛権佐という官職を賜っており、最終的には権大納言という、上流貴族としての官職に任官するような、高い身分にありました。
頼家も実朝も、身分としては摂政・関白になる、藤原氏の嫡流とほぼ同等の扱いを朝廷から受けています。実朝に至っては、右大臣にまで上っている。これは一般の武士から見れば、とてつもなく高い地位です。
そういった貴種を鎌倉殿として戴いていた政権から、伊豆の片田舎の武家の出身である二人がトップに変わったわけです。
この政権に対して、源氏将軍時代のような協調関係が成り立たないと感じた後鳥羽院は、承久3年(1221)に義時追討の院宣・官宣旨を発し、自分の言うことをきく御家人を執権に据えようとしました。これが「承久の乱」です。
この戦いに後鳥羽院が敗れて失脚すると、身分的には中流貴族レベルで、しかも地方武士に過ぎない義時が、新しい天皇や治天の君を選ぶという、かつてない出来事が起こりました。
これは、貴種をトップに戴く幕府との決別であり、東国の武士たちによる、東国武士政権への移行です。
これによって「真の武士の世」が到来し、それは明治維新まで続きました。
つまり、承久の乱は大きな時代の転換点であり、勝利を得た北条義時は、その後、江戸幕末期まで続く「武士の時代」をつくりあげた立役者であったと言えるでしょう。
更新:11月22日 00:05