大和郡山城
豊臣秀吉から絶大な信頼を寄せられ、天下取りに欠かせなかったと言われるほどの存在感を示した弟の豊臣秀長。秀吉同様、前半生は謎に包まれていますが、近年、その謎は少しずつ解明されつつあります。秀吉の右腕としての活動、そして大名間の緩衝材として政権を支えた晩年まで、『豊臣兄弟!』の時代考証を担当する柴裕之氏が、「最強の補佐官」秀長の実像に迫ります。
*本稿は柴裕之監修『7つのキーワードでまるわかり コミュ力お化け 豊臣秀吉』(主婦と生活社)より一部抜粋・編集したものです。
秀吉が右腕として頼りにした弟・秀長。大名との関係を取り持ち、合戦では別働隊の大将を務めるなど、天下取りに貢献したが、その前半生は兄同様に謎が多い。
秀長の父は、秀吉の継父・筑阿弥(ちくあみ)とされている。しかし近年の研究では、2人は同父兄弟で父の法名は「妙雲院」であるという説が有力だ。生年も諸説あるが、天文9年(1540)生まれで秀吉とは3歳差とする説が有力である。
秀長が織田信長に仕官した年も、確かなことはわかっていないが、天正3年(1575)に発給した文書が残っており、35歳ごろには信長に仕えていたと考えられる。興味深いのは、この文書の署名が「長秀」となっている点だ。これは信長からの偏諱(身分が上の人物から名前の一文字を賜る習慣)とみられる。つまり、このときの秀長はあくまで信長の家臣であり、信長から秀吉に配属されている立場(与力)だったのだ。
謎が多い秀長だが、秀吉に信頼されていたことは間違いなく、兄を支えて重要な任務をこなしていたことがわかっている。
天下一統に本腰を入れた信長は、全国各地を平定するための方面軍を組織した。中国地方の担当になった秀吉の配下に、長秀(秀長)が名を連ねている。但馬の竹田城を攻略した秀吉は秀長に竹田城の城代を任せ、但馬に領地も与えたようだ。弟への信頼が伝わってくる。
さらに、秀長が秀吉にとって単なる部下ではなく、対等ともいえる存在だったことがわかる文書が伝わっている。三木城攻めの最中に起こった平井山合戦で敵将を討ち取った樋口彦助に、秀吉と秀長が100石ずつ、合計200石の領地を与えるという書状を発給しているのだ。樋口彦助からすれば、同じ石高の褒美を与えてくれた秀吉と秀長は、同じ立場の上司と感じられただろう。
中国攻めは本能寺の変による信長の急死で幕切れとなるが、この遠征で行われた三木城攻めや鳥取城攻めでも秀長は秀吉を補佐した。特に、但馬の直接的な統治は秀長が担当しており、部下に領地を与えたり、鮎の漁を許可したりした証状が残っている。秀長が政務を行ってくれたおかげで、秀吉は安心して背後を任せて平定戦に集中できたのだ。
信長の仇討ちとなった山崎の戦いには、陣頭に立つ秀吉とともに秀長も参戦。この合戦で明智光秀を討った秀吉は信長後継者の第一候補となる。続く賤ヶ岳の戦いでは最前線に陣取って前田利家らと対峙したとされる。この武功で播磨と但馬を拝領した秀長は、姫路城に居城を移したという。
織田信雄・徳川家康と秀吉が戦った小牧・長久手の戦いでも秀長は秀吉を補佐。秀吉が秀長を頼りにする書状が複数伝わる。この頃名乗りを「長秀」から「秀長」に変えており、織田家と羽柴家の立場が逆転したことがわかる。
そして、信長が成しとげられなかった四国攻め。秀吉の出陣がなくなったことで、代理の総大将となった秀長は期待に応えて長宗我部元親を降伏させ、四国を平定した。
小牧・長久手の戦いと紀州攻めでも功績を積み上げた秀長は、紀伊・和泉を拝領して播磨・但馬から本拠地を改めた。さらに、四国攻めの戦功で大和も加増され、3か国を治める大名になる。
同じ頃、秀吉は朝廷の最高官職である関白に就任して、朝廷から豊臣姓を賜った。秀長も参議に就任し、従三位に列せられる。武士にとっての朝廷のポストや序列は、朝廷で仕事をするというよりステータスに箔をつける目的が大きい。出自が低い秀吉には、かなり重要なポイントだったのだ。
秀長は九州攻めにも副将として参戦。東西に分かれて同時に進行する軍の片翼を指揮し、約14万の兵で日向などの城を攻めて島津義久を降伏させた。この功績もあって大納言に昇進。大和大納言と呼ばれる。同時に大納言となった徳川家康とともに政権の序列3位として秀吉を支えた。
豊臣政権の要となった秀長は、温厚で情け深い性格もあって多くの大名から頼られた。大名同士や大名と秀吉の間の緩衝材となり、豊臣家臣団の結束力を保つ指南役を務めたのである。
秀吉の小田原攻め開始が秒読み状態となり、全国統一戦が総仕上げに入る時期に、秀長は重い病に倒れた。このため小田原攻めにも東北の平定にも参戦できず、秀吉の全国統一達成を病床で聞く。そして、翌年の天正19年(1591)正月22日に52歳で秀長は世を去った。秀吉は秀長の死を深く嘆き、盛大な葬儀で送り出した。葬列の見物には20万人が集まったという。家督は養子の秀保が継いだが、3年後に17歳の若さで病死。秀長が築いた大和豊臣家はわずか2代で断絶する。
秀吉に諫言できる数少ない身内だった秀長がいなくなり、秀吉は次第に迷走をはじめる。秀長逝去の直後には、政治の相談役として信頼してきたはずの千利休を切腹させた。利休の影響力が強まることを恐れたとされる。さらに、数年後には関白をゆずった豊臣秀次も切腹させた。実子の拾(秀頼)が誕生したことで、秀次が邪魔になったためともいわれる。そして、最晩年に断行した文禄・慶長の役は、国力を疲弊させるだけの結果となり"老害"の限りを尽くす晩年となってしまった。
更新:04月20日 00:05