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豊臣秀長の領地改革はなぜ成功した?既存勢力の抵抗を制した「政治力」

真山知幸(伝記作家、偉人研究家)

大和郡山城

2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、豊臣秀吉とその弟・秀長の物語だ。天正13(1585)年、総大将として四国征伐を成し遂げた秀長は、その功績により大和国を加増される。しかし大和は寺社勢力の強い地域で、統治は容易ではない。秀長はどのようにしてこの地を治めたのか。親しみやすい文体で定評のある伝記作家が解説する。

※本稿は、真山知幸著『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(日本能率協会マネジメントセンター)より一部抜粋・編集したものです

 

反抗的な勢力は毅然とした態度で処断

大和大納言──。
そんな豊臣秀長の呼び名は天正13(1585)年8月、秀吉より大和国を加増されて、のちの天正15(1587)年8月に権大納言の官職を授けられたことに由来している。

郡山城に入って大和・和泉・紀伊3カ国の大守となった秀長。その知行高について、藤堂高虎の一代記である『高山公実録』では次のように書かれている。

「秀長朝臣大和を益封せられ、食禄100万石、郡山を居城とし給ふ」

実際は80万石程度だったともいわれるので、やや誇張されている可能性はあるが、いずれにしても「よくぞここまで来たものだ」と、秀長は感慨深かったことだろう。
だが、同時にこんな思いも胸に去来したに違いない。

「兄者もまた難しい任務を与えてくれたものだ...」

なにしろ、この大和の地は寺社勢力の強い地域だった。東大寺、興福寺、春日神社、多武峰寺...。当時の寺社は僧兵を組織して武力を持っていたことを思うと、統治は簡単ではない。

秀吉はこの難しい土地を是が非でも秀長に任せたいと、常々タイミングを図っていたようだ。もともと大和を治めていた興福寺衆徒の筒井順慶が死去して、幼少息子・定次が跡目を継ぐや、筒井家に伊賀への国替えを命じて、そこに秀長を送り込んだ格好となった。

といっても、秀吉は単に厄介な仕事を弟に押し付けたわけではない。
大和は地理的に大坂に近く、軍事的にも政治的にも、極めて重要な意味を持つ。そんな重要拠点で寺社勢力に好き放題やられては、天下統一を果たすことなどできるはずもない。
信用できて実力のある家臣でなければこの仕事は任せられない──。そんな思いから、秀長に白羽の矢が立てられたのである。

秀吉の意図は秀長に十分に伝わっていたようだ。秀長は寺社勢力の弱体化を図るべく、早速動き出す。大和に入国して早々に、寺社に対して「指出(さしだし)」による検地を行った。

検地といえば、秀吉が行った「太閤検地」がよく知られているが、それが徹底される以前に行われていたのが「指出」という方法で、つまりは自己申告だ。大名が実際に検地を行うのではなく、領内の家臣や寺社などに、それぞれの所領の面積や耕作者、年貢量を申告させるスタイルとなる。

『多聞院日記』を紐解くと、秀長が寺社勢力にじわじわとプレッシャーを与えていたことが、リアルに伝わってくる。

例えば、天正13(1585)年9月5日、「指出在々ノ米ノ員数可書出由申間、一日カゝリテ書出之」とある。検地(指出)を命じて、寺院が1日がかりで書き出すが、その内容を問題視したのだろう。
9月25日の日記には「寺門領事又一万石可落之由由来」とあり、申告時の何らかの落度により興福寺から1万石もの所領を没収していることがわかる。

それだけではない。翌年に再度提出させると、昨年の検地と7250石も異なるとして、秀長は強く批判。領地のさらなる没収という、強硬手段に出た。
こうして、相手にごまかされることなく、粘り強く追及を繰り返した結果、興福寺の領地は秀長が入国する以前と比べて、実に5分の1にまで減らされた。

残されている検地の資料は限られており、これ以上のことはわからないが、興福寺以外の寺院にも同じような措置をとったことと考えられる。兄・秀吉の意図をくみ取って、それをすぐに断行するあたりが、秀長らしい。

秀長が大和に入る前に、この地を治めていた筒井氏が伊賀に国替えになったことはすでに述べた。なかには、このときに一緒に伊賀に移らなかった国衆もいる。
秀長は彼らを傘下に組み入れて自身の家臣にしつつ、反抗的な勢力には、毅然とした態度をとった。特に郡山城近くに根を張る十市郷の侍衆は強い勢力を持っていたため、所領を奪って追放という厳しい処分を断行した。

そうして寺社に協力する武力をはぎとりながら、秀長は統治の基盤をしっかりと築き上げた。

 

刀狩をいち早く実践して寺社を武装解除

また、秀長は兄・秀吉の政策をいち早く実行する役割も担っていたようだ。天正16(1588)年、秀吉はこんなお触れを出した。

「百姓が刀、脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを禁じる。年貢を怠り、一揆を起こすものは罰する」
「回収した刀は方広寺の大仏建立のための釘やかすがいにする。協力した百姓はあの世まで救われる」
「農具だけ持って耕作に励めば、子々孫々まで無事に暮らせる」

要は「農民は農具で田畑だけ耕しとけ」ということである。

秀吉は自分自身が下剋上で、低い身分から這い上がってきた。農民の怖さは身をもって知っている。自分のような人間を今後出さないため、刀狩りによって農民に武器を持てなくさせたばかりか、武士とは身分が異なることを明確に示したのだ。

大胆な行動にばかりつい目を奪われがちだが、このお触れに至るまでに秀吉はステップを踏んでいる。
紀州根来・雑賀の僧徒による武力抵抗に懲りた秀吉は、天正13(1585)年4月に高野山の武器をすべて没収。そして、『多聞院日記』によると、同年8月25日に、今度は秀長が多武峰寺から弓や槍、鉄砲、具足、兜、刀といった武具類の提出を命じている。

秀吉の構想を実現させるべく、どのように進めていくべきか、兄弟で話し合いながら一つずつやることを決めて、実行に移していったのだろう。
まさに二人三脚の政権運営であり、秀長の実行力が秀吉の改革の推進力となった。

 

「アメ」と「ムチ」を巧みに使いながらコントロール

秀長が多武峰寺から奪ったのは武力だけではない。新たな政権に権威づけをすべく、郡山城の鎮守として、多武峰寺の大織冠尊像(藤原鎌足木像)を移そうと考えた。

6000石の寺領を与えるという条件で移転を持ちかけるが、多武峰寺からすれば、由緒ある土地から離れることは考えられないことだったのだろう。何度、秀長から命じられても、受け入れることはなかった。
ならば、と秀長は強硬手段に出た。

天正15(1587)年11月、郡山城の西方丘陵地に郡山新多武峰の社殿を造営。翌年3月には、社寺奉行の前田玄以を通じて綸旨を発し、強引に移転させたといわれている。

秀長からすれば「寺社は政治力や軍事力を持たずに、政権の安穏を祈念すべきだ」という秀吉の考えに理解を示したうえで、それを忠実に実行したに過ぎなかったのだろう。

だが、『多聞院日記』によると、そうして寺社側を弾圧する一方で、秀長は寺社の造営や寄進もたびたび行っていた。
また、郡山に新多武峰の新たな社殿を造ってそこに移させたのも、一説には寺社内で寺僧同士の対立が深刻化したため、秀長が解決に動いた結果ともいわれている。

何かとやっかいな当時の寺社勢力に対して、時には「アメとムチ」を使いながら、コントロールした秀長。巧みな調整力を生かして、兄の期待通りに大和国を統治した。

プロフィール

真山知幸(まやま・ともゆき)

伝記作家、偉人研究家

1979年、兵庫県生まれ。2002年、同志社大学法学部法律学科卒業。上京後、業界誌出版社の編集長を経て、2020年より独立。大学講義や経営者向けのセミナーでの講師活動やメディア出演のほか、雑誌やウェブ媒体への連載も数多く持つ。

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