2019年03月25日 公開
太閤検地と刀狩は、兵農分離を促進し、時代を大きく変えたとされる。しかし近年の研究によって、そうした通説が大きく揺らいでいる。戦国の世が終わりを迎えようとしている時、いったい、何が起きていたのか。
中世から近世に至る過程において、幕藩体制の基礎を成したのが兵農分離である。
もともと武士は村落に住み、平時は農業に携わるのが基本だった。ときに彼らは主君の命に応じて出陣するなど、いわば兵農未分離の状態が長く続いた。武士とはいえ、戦闘員としての専業ではなかったのである。
兵農未分離は16世紀末頃まで続いたが、それを打破したのが兵農分離の政策だったというのが通説だ。しかし近年、そうした通説を見直す研究も数多くなされている。
本稿では、兵農分離を促進させたとされる、羽柴(豊臣)秀吉の太閤検地、刀狩について、これまでの通説と近年の研究動向を踏まえて、その内実に迫ってみよう。
検地とは、年貢の徴収と農民支配を目的として、大名が行なった土地の測量調査である。
戦国時代においても、今川氏や北条氏などの大名が検地を行なった。
天正10年(1582)頃から開始されたのが、秀吉の太閤検地である。以降、太閤検地は全国各地で実施され、兵農分離を進めることになったという。太閤検地の画期性は、次のとおり整理できる。
1点目は、面積や升の容量などの度量衡の統一である。それまでは、全国でバラバラであったが、太閤検地では曲尺の6尺3寸を1間(約1.9メートル)とし、1間四方を1歩、300歩を1反(あるいは10畝)に規定した。升についても、さまざまな容量の升が用いられてきたが、京都で使われていた京升が公定升に定められた。
度量衡が全国的に統一されることにより、年貢の収穫量の把握がしやすくなったのである。
2点目は、分米(年貢米)の把握である。太閤検地では、年貢は田畠(田や畑)、屋敷の筆(区画)に応じて、斗代(1反あたりの平均収穫量)に面積を乗じた額で分米が決定された。
なお、斗代は立地条件や過去の収穫実績が加味され、田畠の地種や上・中・下・下下の等級でランク付けられた。上田の斗代は、1石5斗だった。
3点目は、名請人(耕作人)の決定である。各筆(区画)には、1人の農民が耕作権を有し、領主に年貢を納めることになった。農民は検地帳に登録され、ほかの諸権利は一切排除されたのである。
公家や寺社が土地を保持する荘園制下では、1つの土地に複雑な領有関係があったが、太閤検地により一地一作人の原則が完成した。同時に、武士は農業経営から排除され、兵農分離が進んだというのである。
兵農分離をさらに促進させた政策が、刀狩である。刀狩とは、単に刀だけでなく、弓矢、鉄砲の武器類を農民から取り上げることである。
すでに天正4年(1576)の段階において、柴田勝家が北陸での一向一揆鎮圧後の政策として、「刀さらへ」を行なっていた。集めた刀などで鎖を作り、鎖は九頭竜川の舟橋に用いられたという伝承がある。
天正13年(1585)、秀吉は紀州で原刀狩令を発布し、刀などの武器を農民から取り上げ、耕作に専念するように命じた。同様の施策は、大和、山城の諸国でも採用された。
その3年後、秀吉は全国を対象とした刀狩令を発布した。趣旨は紀州での原刀狩令と同じであるが、3カ条の要点を確認しておこう。
第1条目は、農民の武具の所持を禁じ、国主らに農民の武具の没収と進上を命じている。
第2条目は、取り上げた刀などの武器は、大仏(方広寺)を建立する際の釘などに活用することである。これにより、農民は現世だけでなく、来世までも助かることにつながるとしている。
第3条目は、農民は農具をもって耕作に専念すれば、子々孫々まで長く続き、それは秀吉が農民を憐れむ気持ちの顕れであるという。
取り上げられた武器は刀だけでなく、弓矢や鉄砲にまでおよんだ。武器を取り上げられた農民は、秀吉の命令どおりに耕作に専念したという。
以降、太閤検地の政策と相俟って、兵農分離が進んだといわれてきた。同時に重要なのは、城下町に村落を離れた武士が集住することになり、農民は農業に従事するため、城外の村落に住んだということである。
おおむね上記の諸説がこれまでの通説とされていたが、現在では改められつつある。最初に、太閤検地から確認してみよう。
更新:11月22日 00:05