《『歴史街道』2015年4月号より》
歴史研究は、通説を疑うことから始まる。最近では斎藤道三の国盗り、山本勘助の実在、北条早雲の年齢や伊豆討入りの年などが見直され、書き替えられてきた。そして今、織田信長も新たな人物像が提議されている。まずは問題とされている4つの点について、紹介しよう。
旧来の秩序を壊し、戦国乱世を切り拓いた「破壊者」――。日本史上、最も有名な男と言っても過言ではない織田信長に対して、多くの人がそのような人物像を思い浮かべることでしょう。
しかし近年、そんな従来のイメージに囚われない、「新たな信長像」が提議されています。特に昨年(平成26年〈2014〉)は、立て続けに関連書籍が刊行されました。私も一研究者として非常に興味深く、また「破壊者である信長」にカタルシスを覚える方が多いだけに、今までと異なる信長像を主張する方々には、勇気を感じずにはいられません。
とはいえ新史料の発見、あるいは史料の解釈の変化によって、これまで常識として語られてきた「通説」が改められることは、歴史研究ではしばしばあります。たとえば、「美濃の蝮」こと斎藤道三、「戦国の先駆け」北条早雲などはその典型例でしょう。
斎藤道三は、京都妙覚寺の僧侶から油売りになり、さらに美濃の土岐氏に仕えて、一代で美濃の主にのし上がったとされてきました。しかし、岐阜県史の編纂の過程で新たな六角氏の文書が見つかり、「『斎藤道三』の国盗りは、実は父子二代がかりで行なわれたものだった」と、ガラッと見直されたのです。同様に甲斐武田氏の家臣・山本勘助も、実在を否定的に考えられていましたが、昭和44年(1969)発見の「市河家文書」に名前が載っていたことから(文書での名は「山本菅助」)一転、今では「山本勘助はいなかった」と唱える人はほぼいなくなりました。
一方、個人的に非常に印象深いのが、北条早雲のケースです。早雲といえば88歳の長命を保ち、むしろ「老いてから活躍した武将」という印象を持たれがちでした。ところが、現在では史料の解釈が変わり、64歳で没したとする説が一般的となり、出身も伊勢の素浪人ではなく、備中の伊勢氏が定説となっています。さらに伊豆討入りの年も、従来は延徳3年(1491)とされてきましたが、今では明応2年(1493)と書き替えられています。この伊豆討入り年の見直しは、私か30年ほど前に唱えたことがきっかけでした。
大学で教鞭を執っていた頃、私は常々学生に「これまでに習ってきたことは知識としては大事だけれども、そこに縛られては駄目だよ」と話してきました。歴史研究は、通説を疑うことから始まります。1つの仏像も光の当て方で顔が異なって見えるのと同じように、ある事柄に対する理解も、別の角度から光を当てることで、しばしば新たな発見に出会うことができるのです。
ただし、「歴史の書き替え」は、ある程度の時間を伴って行なわれます。早雲の伊豆討入り年の新説にしても、認められるまでに10年ほどかかりました。戦国史研究の大家・鈴木良一先生は、自著『後北条氏』(有隣新書、1988)で「明応2年・1593年とする小和田哲男説に惹かれるが、しばらく通説に従う」と記しています。通説を改める際には細心の注意を伴う検証が必要であり、同時に少なからずの躊躇もあるでしょう。誰かが新説を唱えて突破口を開き、そこにフォロワーが現われ、緩やかに受け入れられてゆくものなのです。
更新:11月21日 00:05