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安土城の謎~戦国の覇王・織田信長が築城した天下の名城

2013年08月29日 公開
2022年07月28日 更新

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

『歴史街道』2013年9月号より》

天下統一を目指す信長が安土築城を命じたのは、畿内をあらかた平定し、さらなる展望を抱いた時期でした。新しい本拠地として安土を選んだ信長の狙いとは、はたして何だったのでしょうか?
さらに、従来の「戦うための城」ではなく、「見せるための城」とした意図とは?

 

天下統一を狙う信長が安土城を築いた意図は何でしょうか?

 信長は安土城を築く前に、本拠地を何度も移しています。那古野城から清洲城に本拠を移して尾張を統一した後、前線により近い小牧山城で美濃攻めに臨みました。斎藤氏を下すとその居城の稲葉山城に本拠を移し、岐阜城と新たに命名します。そして、その翌年に足利義昭を奉じて上洛を果たしました。

 このように、信長は次の目標に近いところに城を移して、進攻するというやり方で勢力を拡大していきました。岐阜城に本拠を移してからしばらくは、四方の敵対勢力と対峙する状態になりましたが、浅井・朝倉氏を滅ぼし、長篠・設楽原の戦いで武田軍を大敗させ、長島や越前の一向一揆勢を討伐すると、次なる目標は大坂の石山本願寺や中国地方の平定となります。東は武田家が衰えを見せ、盟友の徳川家康が遠江へ進攻していましたので、信長の意識が西に向かうのは当然だったでしょう。

 ただ、安土築城を命じた天正4年(1576)の時点では、越後の上杉謙信と敵対関係にありましたので、上杉勢が北国街道から信長の勢力圏に進攻するのを阻止する必要がありました。また、石山本願寺が健在ですから、越前や湖北の一向一揆が再び立ち上がる恐れもあり、それを防ぐ必要もあったのです。

 もちろん、京都に居城を移すという選択肢もあったでしょうが、琵琶湖湖畔の安土から京都へは船を使えば半日程度で入れますから、わざわざ京都に本拠を移す必要はありません。それよりも京都と尾張の中間に位置する安土にいて、上方と東海地方の両方の経済圏を押さえようという意図があったのです。

 

なぜ信長は、安土城を「見せるための城」にしたのでしょうか?

 安土城以前の城のように、単に籠城して戦うための城であれば、わざわざお金をかけて豪華絢爛を誇る必要はありません。しかも目立たせるのは攻めてきた敵に目標を示すこととなるので逆効果です。

 しかし築城の時点では、織田家の戦闘地域は勢力圏の周縁部にあったわけですから、信長は安土で戦うことなど想定していなかったでしょう。ですから、信長は軍事的な面というよりも政治的な面を重視しました。

 つまり、城下のどこからでも壮麗な天主が見えるようにして、人々に自分の権威を示したのです。しかも従来にない新しいものを見せることによって、信長の天下になれば、これまでとは違った世の中になるということを人々に印象づけました。

 現に派手好きの信長は、城下で度々相撲大会を開いたり、天主を提灯でライトアップするなど、これまでにない盛大なイベントを企画しました。天正10年(1582)の正月には、天主の隣にある本丸御殿を見物させて自ら百文ずつの見物料を受け取ったりもしています。

 このような演出を目の当たりにすれば、民衆は信長に靡いて新しい政策も受け入れますし、敵対者も信長と戦うのはあまり得策ではないと考えるようになります。

 こうした発想は、やはり天下統一を狙う人物ならではのものでしょう。信長の天下統一事業の後継者となった秀吉も、同様の発想で大坂城や聚楽第を築きました。そうした意味で、安土城は、城郭が新たな機能を備える画期となった城と言えます。

 

安土城の天主の姿にはどのような説がありますか?

 安土城の天主については、いくつかの復元案が提唱されていますが、基本的には太田牛一の『信長公記』の写本の1つである『安土日記』やルイス・フロイスの『日本史』の記述が元になっています。それに様々な証言や文書を傍証として復元案がつくられ、近年では主に5種類ぐらいのものがあります。

 それぞれ階層の形や大きさに色々な違いがあるのですが、特異なものとしては、地階から地上3階までの計4階が巨大な吹き抜けになっていて、その中央に宝塔を据え、西洋風の天井の高い空間があったという説があります。2階には舞台も設けられていて、いかにも派手好みの信長らしいユニークな構造です。この案は加賀藩士の家から見つかった「天守指図」という城の設計を記した史料にに基づいていますが、後世に創作されたものではないかという意見もあり、どの程度史実に基づいているのかは議論の分かれるところです。

 他に、地階から3階までの中央に心柱があったという説や最近では天主台から清水の舞台のような懸け造りの構造物が張り出し、二の丸と繋いでいたという説もあります。これらも特色があってとても興味深いものがあります。しかし、いずれも可能性としてはあっても、確かな史料がないため想像の域を出ておらず、何とも言えないところです。私自身としては、もう少しオーソドックスなつくりだったのではないかと考えています。

 実は、存在自体は知られていながら行方がわからない、有力な史料があります。信長がローマ法王のために狩野永徳に描かせ、宣教師ヴァリニャーノがバチカンに持ち帰った屏風絵です。天正13年(1585)にバチカン宮殿内の「地図の画廊」に展示されたことは確認されているのですが、以後、行方不明になりました。その「幻の屏風」を求めて数度にわたって滋賀県から調査団が派遣されましたが、未だ発見されていません。天主の姿を知る上での貴重な史料ですので、発見が待たれるところです。

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著者紹介

小和田哲男(おわだ・てつお)

静岡大学名誉教授

昭和19年(1944)、静岡市生まれ。昭和47年(1972)、 早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史、特に戦国時代史。著書に、『戦国武将の叡智─ 人事・教養・リーダーシップ』『徳川家康 知られざる実像』『教養としての「戦国時代」』などがある。

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