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安土城の謎~戦国の覇王・織田信長が築城した天下の名城

2013年08月29日 公開
2022年07月28日 更新

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

本能寺の変後、天主はなぜ炎上したのでしょうか?

 本能寺の変の後、安土城は明智軍の手に落ちました。しかしそれも束の間のことで、山崎の合戦で敗れた直後、光秀の娘婿の明智秀満が安土城から退去する際に天主が炎上します。本能寺の変からわずか12日後に天下一の天主が灰塵に帰してしまいました。

 はたして誰が火を放ったのでしょうか。『惟任退治記』や『太閤記』など後世の書物では、秀満が逃げる時に城下に火を放ち、それが本丸に飛び火したと記されています。しかし、近年の発掘調査から、安土城の本丸周辺以外の場所は燃えていないことがわかりました。後世の軍記物で秀満が犯人に仕立て上げられたのかもしれません。

 実は犯人として名前が挙がる人物が、もう1人います。それは信長の息子の織田信雄です。ルイス・フロイスが『イエズス会日本年報』で信雄が犯人だと記しているのです。

 信雄は明智勢が退去した直後に安土城に入りますが、その際、まだ城内に隠れていた明智勢の残党を炙り出すために火をつけたのではないかと考えられています。父信長が築いた城に火をつけたとは考えにくいようにも思えますが、信雄は信長によく叱られていたので軋轢もあったかもしれません。フロイスも「理由はわからない」としているように、信雄のその時の心情まではわかりかねますが、ほとんど利害関係のないフロイスがわざわざ記している点で、信憑性が高いように思われます。

 

その後、安土城はどうなったのでしょうか?

 清洲会議の後、織田家の家督をついだ信長の孫の秀信(三法師)とその後見の信雄が焼け残った安土城に入ります。天主はなくても、安土城はその後も織田家の居城として機能していました。

 ですが、秀信は2年後の天正12年(1584)に近江坂本城に移されました。さらにその翌年に、羽柴秀次が近江八幡に居城を築くことになります。これによって安土城は正式に廃城となり、安土の城下町がそっくり移るような形で近江八幡の町づくりが進められていきました。

 信長の後継者となることを目論んでいた秀吉にすれば、織田家の象徴である安土城がいつまでも残っていることは都合がよくなかったのでしょう。そのため、天主も再建しませんでした。この頃、大坂城の築城にも乗り出していますので、大坂城こそが天下の城であると思わせたかったのです。信長とともにこの世から消えた安土城は、それほど人々に強烈なインパクトを与えた城だったと言えるでしょう。


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第二特集は戦国の覇王信長の城、「安土城の謎Q&A」です。

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著者紹介

小和田哲男(おわだ・てつお)

静岡大学名誉教授

昭和19年(1944)、静岡市生まれ。昭和47年(1972)、 早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史、特に戦国時代史。著書に、『戦国武将の叡智─ 人事・教養・リーダーシップ』『徳川家康 知られざる実像』『教養としての「戦国時代」』などがある。

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