2013年07月26日 公開
2023年04月13日 更新
島津義弘像
「たせい(多勢)を見てもをそる(恐る)へからす」。九州全土に覇を唱えるだけでなく、明・朝鮮軍から「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と恐れられ、関ケ原では東軍の度肝を抜いた戦国の島津軍。
しかし彼らも、初めから強かったわけではない。剽悍無類にして強か、さらに主従の固い絆に支えられた、薩摩の「意地」とは何であったのか。
※本稿は、『歴史街道』2013年8月号より内容を、一部抜粋・編集したものです。
今より400年以上昔、戦国の世には、畏怖の念を込めて「鬼」と呼ばれた男たちがいました。
織田信長の股肱の臣として有名な「鬼柴田」こと柴田勝家、武田信玄を支えた「鬼美濃」馬場信春、徳川四天王の1人で「井伊の赤鬼」と恐れられた井伊直政、はたまた上杉謙信の家臣でやや脚色された鬼小島弥太郎…。その中でも、一際異才を放つ男たちがいます。
― 鬼石曼子〈グイシーマンズ〉。
「石曼子」とは中国語で、日本語では「島津」。薩摩の戦国大名・島津家を指す言葉です。
彼らがこう呼ばれたのは慶長の役の泗川の戦いに因ります。慶長3年(1598)、豊臣秀吉の命で渡海した島津義弘率いる島津軍は、朝鮮半島南端・泗川で明・朝鮮連合軍と激突。
島津家の記録に拠れば、島津軍7千に対して、敵勢は約20万。絶体絶命、常識で考えれば勝機を見出す余地のない兵力差でした。
しかし―― 島津軍はそんな状況下において、敵兵3万8千を討ち取る奇跡的な勝利を収めます。この鬼神の如き戦ぶりに、「鬼石曼子」の異名がつくことになりました。
かの徳川家康も、慶長の役での島津の活躍に「古今稀に見る大勝利」と賛辞を贈っています。そして家康に、より強烈なインパクトを与えたのが、世に有名な関ケ原合戦の「島津の退き口」でした。
慶長5年(1600)9月15日。島津義弘は味方の西軍諸隊が瓦解すると、「敵はいず方が猛勢か」と問うや、あえて強敵に向かって乾坤一擲の進軍を開始します。手勢はわずか3百余、東軍諸将が待ち構える敵陣の中央を突破しての、戦場脱出を図ったのです。
島津勢が家康本陣を掠めると、井伊直政隊が追い縋ります。「もはやこれまで、内府(家康)の元へ突撃し、最後を遂げるべし」。徳川最精鋭部隊の追撃に、さしもの義弘も一時は覚悟を固めました。しかし、義弘を敬愛する甥・中務大輔豊久(末弟・家久の息子)が止めます。
「公は、どうか薩摩のために生き延びてくださいませ。殿は豊久が仕りましょう」
現在の烏頭坂付近
関ケ原東南の烏頭坂で、豊久は自ら10数人の兵を率いて反転。身を賭して井伊軍を食い止め、その間に義弘を逃す決死の策「捨てがまり」に打って出るのです。
また、腹心の阿多長寿院盛淳も同じように主君になりすまして敵の攻勢を止めて戦死します。かくして、義弘本隊は多くの家臣を犠牲にしながらも、80名ほどに減った部下とともに薩摩の土を再び踏むことを得たのでした。
「島津の退き口」には、彼らの「凄み」が凝縮されています。ひとつは、主従関係の濃密さです。義弘が敵中突破を決心した際、家臣の誰ひとり異を唱えず、それどころか身を挺して主君を守り抜いて、主家の安泰を図る覚悟を固めました。
これほど強固な主従は、いくら戦国時代といえども稀でしょう。
また、義弘本隊が敵中を突破できたのは、島津軍の精強さゆえです。死地を前にしても怯むことなく、それを突き破る強悍さ。泗川の戦いからも窺えるように、彼らには多勢に無勢の状況を撥ね返す力がありました。
さらに言えば、実は外交センスも関ケ原の逸話から窺えます。島津は、敵中突破という「伝説」をその手で作り上げたことで、家康はじめ諸大名に「島津を敵にすれば、ただでは済まない」と強烈に印象づけました。
島津はこれを外交カードに、その後の家康の上洛命令も拒み続け、最終的に本領安堵を勝ち取るのです。
主従一丸となり、和戦双方を絶妙なバランスで駆使して家と領土を守り抜く。これこそが、「島津の強かさ」というべきものでした。そして、この強かさがあればこそ、やがて訪れる幕末の世に維新の立役者となるのです。
更新:11月21日 00:05