2013年07月26日 公開
2023年04月13日 更新
関ケ原、島津義弘陣跡
四兄弟はそれぞれ、個性溢れる男たちでした。
領国経営に心を砕き、関ケ原合戦後には家康の上洛命令を撥ね付けるなど、島津の誇りを誰よりも抱いていた長男・義久。
統治能力、外交能力、指揮能力、戦略構想力、人格的な魅力など最もバランスがとれていたリーダー、次男・義弘。
秀吉に抗い続け、四兄弟の中でも最も勇敢であった三男・歳久。
荒々しい気性ながらも家臣に慕われ、祖父・忠良より用兵の妙を讃えられて、沖田畷の戦いでは龍造寺隆信を打ち取り、戸次川の戦いでは豊臣軍を蹴散らすなど野戦で無敵を誇った四男の家久…。
島津軍は従来より十分に屈強でしたが、しかし私は、四兄弟の登場こそが島津軍を九州で「戦国最強」の兵力へと開花させたと考えています。
伊東、大友、龍造守、豊臣、明・朝鮮連合軍、そして徳川と、戦国の島津が戦った相手は、いずれもが自軍の数倍、時には数十倍の兵力を擁する大敵でした。
それでも勝利を収め得たのは、苛酷な歴史の中で培った戦闘センスや薩摩兵の剽悍さが挙げられます。さらに付言すれば、鉄砲の存在も大きかったでしょう。
薩摩の領内にはザヴィエルが初めて日本に着いた種子島があり、島津はいち早く海外の軍事知識や鉄砲技術を取り入れました。海洋国家であるため、先進情報にも早くから接し、技術革新に対する抵抗がなかったのです。こうした気風は、幕末の島津斉彬らからも窺えます。
しかし、薩摩兵を「戦国最強」たらしめた最大の要因は、義弘や家久ら優れたリーダーの存在でした。戦における決断は、将が行なうものです。
もし、ひとつの軍の統制が乱れるとすれば、それは指揮官のリーダーシップが乏しく、諸兵が各々で戦局を判断して行動する時です。こうなれば、もはやその軍に勝機はありません。
維新後、大坂鎮台の歩兵第八連隊を指して「またも負けたか八連隊」という俗謡が生まれ、大坂近辺の兵は弱いというイメージが持たれました。しかしこれは歴史的に根拠が乏しく、かの楠木正成が率いたのも大坂の河内兵です。
すなわち、「大坂兵=弱兵」というのは偏見に過ぎず、優れたリーダーさえいて訓練がしっかりしていれば、どんな兵でも強兵になりうるといえるでしょう。その点、薩摩兵が剽悍だったことは事実ですが、同時に義弘や家久のリーダーシップにも目を向けるべきなのです。
さらに義弘らのリーダーシップだけではなく、家臣たちの「フォロワーシップ」もまた、島津を「戦国最強」たらしめたものでした。
鎌倉時代に薩摩に入った島津氏は、長い間、庶流の大身や土豪の内訌に悩まされ続けました。
そんな状況に変化が訪れたのが、戦国時代です。近隣の伊東氏や相良氏、肝付氏、伊地知氏などが勢いを増し、いよいよ島津本宗家を脅かすようになると、家臣の多くが「もはや、家中で争っている場合ではない」と悟ります。
そして、島津の家を守らなければ自分の家を守ることはできず、島津の勝利こそ自分たちの勝利であり、薩摩武士の誇りであるという思いを抱くに至ったのでしょう。
それは、関ケ原で端的に表われています。島津豊久や、同じく「捨てがまり」に打って出た重臣・阿多長寿院盛淳らは、義弘を心から敬愛し、義弘を守るために命を賭す覚悟を固めていました。
とはいえ、義弘に唯々諾々と従ったのではありません。脱出を諦めかける義弘を強く諌止し、自分たちの命を盾にして、何が何でも義弘を生還させるのです。
「大将さえ生きてあれば、この戦は政治的に我らの勝ちである」――豊久や長寿院ら関ケ原で散っていった家臣たちは、そんな思いと判断だったのでしょう。
このように、主君と家臣の関係が勝ちを得るために見事に一丸となって機能していたからこそ、島津はどんな逆境にも挑み、大敵を打ち破ることができたのです。
豊臣秀吉、徳川家康という2人の天下人に真正面から相対し、明・朝鮮軍相手にも活躍した戦国武将は、島津以外にはいません。どんな強敵を前にしても、決して屈することなく、家や領土、そして武士としての矜持を守り抜く。
そんな心を薩摩では、英語の「pride」に近い意味で「意地」と表現するようです。今も鹿児島において、気合を入れる際に用いられる掛け声「チェスト!」は、「意地」で逆境を撥ね返し続けた薩摩の気風を伝える、象徴的な言葉といえるでしょう。
そして、幕末明治維新に至るまで「薩摩の意地」を支えたものこそ、あらゆる手段を用いて家を守り抜く強かさであり、「リーダーシップ」と「フォロワーシップ」が発揮された、見事なまでに強固な主従の絆だったのです。
戦国乱世を、最も痛快に、鮮やかに生きた男たちの姿から、私たちが学ぶべきものは多いのではないでしょうか。
更新:11月24日 00:05