2013年07月26日 公開
2023年04月13日 更新
では、島津が最初から強かさを備えていたのかといえば、それは違います。我々はそうした要素を見落としがちですが、初めから強い守護大名、戦国大名などあり得ません。島津を育んだのは、その苛烈な環境でした。
島津家の始祖・忠久が、源頼朝より南九州3州(薩摩・大隅・日向)の守護職に補任されたのは、建久8年(1197)のことです。以後、島津は南九州の統治にあたりますが、しかしこの土地は一筋縄ではいきませんでした。
今でも、鹿児島の人々を「薩摩隼人」と呼ぶことがあります。隼人とは、記紀神話に登場する「熊襲」と同様、古代南九州に住んでいた非ヤマト民族のことです。蝦夷もそうでしたが、彼らは都から離れていたがため「大和化」が遅れ、中央政権に反抗しました。
そして、「隼人司」「隼人正」など隼人を治めることを主とした役所や官職が置かれるほど、武力で中央政権を苦しめたのです。国分市などと合併して霧島市となった町に、隼人町という名の町もあります。
島津家は、そんな反骨心旺盛な地域の統治を任されました。加えて、南九州にはすでに関東から豪族が下向しており、領地の確保に躍起となっていました。
島津のライバルと言えば大友氏や龍造寺氏が連想されますが、近隣の日向伊東氏や肥後相良氏らとも鎌倉時代から鎬を削り、決して侮れない相手だったのです。
島津にとっては四面楚歌の状況で、細かい諍いは数え切れません。そんな苛酷な生存競争の中に置かれていればこそ、戦の技術も自ずと磨かれていったのです。
同じように研ぎ澄まされたのが、外交感覚でした。島津の歴史は様々な「伝説」に彩られています。先に述べた「退き口」もそうですし、最たる例が、初代・忠久が源頼朝の落胤である、というものです。
在地領主らを統制する際、必須であり最も効果的だったのが、出自のカリスマ性や貴種性でした。島津はそこで、「忠久は直系の血が絶えた頼朝の御落胤」という貴種伝説を積極的に喧伝したのです。このあたりの感覚は、まさに巧みな外交です。
こうした姿勢は、戦国時代の島津からも窺えます。島津は、大友家の名将・高橋紹運を岩屋城で討った際、「敵ながら天晴れ」と褒め称えました。
そして、関ケ原合戦からの帰途、満身創痍の義弘主従が紹連の息子・立花宗茂と鉢合わせた時、島津が紹運に敬意を表したことを知っていた宗茂は、「父君の仇を討つ好機」と進言する家臣らを「島津殿との間に遺恨はない」と制したのです。
一方で、「泗川の勝利」のように、戦における伝説的な武功も枚挙に暇がありません。こうして「花も実もある島津」の印象を広め、自分たちの「凄み」を知らしめることで、それを無言の圧力とし、「戦わずして勝つ」状況をも生み出したのです。
島津というと戦の連続で領土を拡大したように思われがちですが、実は婚姻政策にも積極的であり、和戦両様、極めて合理的に勢力を拡大していました。
鎌倉時代より、南九州で鎬を削る苛烈な環境に置かれた島津は、長い年月をかけ、そこで生き残るための「強かさ」を磨いていったのです。
とは言え、周囲の厚い壁に阻まれ、島津はなかなか南九州を統べられませんでした。それが戦国時代に入り、九州全土に覇を唱えるに至ったのは、義久・義弘・歳久・家久の四兄弟の活躍に拠るところが大です。
彼らが、それまでに培われた島津の戦の粘りと治国の才を爆発させたといえるでしょう。
四兄弟の牽引力のバックボーンには、祖父・島津日新斎忠良の存在があります。忠良は「島津家中興の祖」とも呼ばれ、自身が遺した「日新斎いろは歌」という家訓の中で、薩摩武士として守るべき教えを説いています。
「いにしへの道を聞ても唱へても わか行ひにせすは甲斐なし」
(古より伝わるどんな素晴らしい道も、実践しなくては意味がない)
「無勢とて敵をあなとることなかれ たせいを見てもをそるへからす」
(少数の敵でも侮ってはならない。また、敵が多勢でもいたずらに恐れず、冷静沈着に対処せよ)
「とか(科)ありて人を切とも軽くすな いかすかたなもたゝひとつなり」
(重大なミスを犯した者でも簡単に裁くな、人を活かすも殺すもトップ次第であると肝に銘じよ)
本来、家訓とは家を治めるためのものですが、大名家の場合は往々にして、所領統治の指針ともなります。特に「日新斎いろは歌」は、島津が苦闘の歴史から導びき出した政治哲学や戦闘哲学、そして統治哲学の結晶でした。
武士としての衿持を伝えるとともに、あらゆる場面においてリーダーシップを発揮できる人間を生み出すためのテキストといえるでしょう。こうした帝王学を、四兄弟は祖父・忠良や父・貴久から学びつつ育ったのです。
更新:11月24日 00:05