小牧・長久手の戦いは“徳川家康の勝利”と言い切れない理由
小牧・長久手の戦いは“徳川家康の勝利”と言い切れない理由
本能寺の変、羽柴秀吉は山崎合戦、清須会議、賤ヶ岳の戦いを経て、天下人として振る舞い始める。そんな秀吉に対して、織田信長の次男・信雄が不満を募らせ、徳川家康を頼るようになる。やがて両陣営は決戦へと至るが、は...
歴史街道 » #織田信雄の記事一覧
本能寺の変、羽柴秀吉は山崎合戦、清須会議、賤ヶ岳の戦いを経て、天下人として振る舞い始める。そんな秀吉に対して、織田信長の次男・信雄が不満を募らせ、徳川家康を頼るようになる。やがて両陣営は決戦へと至るが、は...
織田信長の二男・信雄と三男・信孝は同年の生まれ。本能寺の変の後、二人は後継者の地位を巡り争いを繰り広げた。彼らはどのような人物だったのか、その実像に迫る。 ※本稿は、『歴史街道』2021年3月号より、内容を...
岩村城跡に残る石垣。岩村城は明治維新後に廃城とされるまで存続していた(岐阜県恵那市) 浅井・朝倉や本願寺との戦いで、時に敗れ、時に絶体絶命の窮地に陥ったこともあったが、織田信長はそれ以外でも、数多くの戦...
今日は何の日 寛永7年4月30日、信長の次男・織田信雄が没 信長の次男。幼名は茶筅。生母は生駒吉乃 寛永7年4月30日(1630年6月10日)、織田信雄が没しました。織田信長の次男で、北畠氏の養子に入...
《 『歴史街道』2013年9月号 より》 天下統一を目指す信長が安土築城を命じたのは、畿内をあらかた平定し、さらなる展望を抱いた時期でした。新しい本拠地として安土を選んだ信長の狙いとは、はたして何だったのでしょう...
更新:11月22日 00:05