本能寺の変、羽柴秀吉は山崎合戦、清須会議、賤ヶ岳の戦いを経て、天下人として振る舞い始める。そんな秀吉に対して、織田信長の次男・信雄が不満を募らせ、徳川家康を頼るようになる。やがて両陣営は決戦へと至るが、はたして真の勝者はどちらだったのか? 歴史研究家の河合敦氏がひもとく。
※本稿は、河合敦著『徳川家康と9つの危機』(PHP新書)の内容を、一部抜粋・編集したものです。
本能寺の変からわずか一年間で、織田政権の様相は一変した。山崎合戦後の6月27日、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興が清須城に集まり、織田家の後継者問題について話し合った。俗にいう清須会議である。
『川角太閤記』などによれば、会議では次男の信雄と三男の信孝のどちらを家督にするかが話し合われたが、主君の仇を討った秀吉が主導権を握り、信長の孫・三法師を家督にすえてしまったとされる。ただ、残念ながら会議の内容を記す一次史料がないので、人口に膾炙したこの通説が事実かどうかはわからない。
柴裕之氏はこれに対し、「信長は生前、すでに織田家の当主となっていた信忠を天下人である自身の後継者として地位を固めさせ、自身の嫡流である織田宗家が天下=中央を統治する家としてあるべきことを示していた」
「このため、庶家にあった北畠信雄や織田信孝らは、家督後継者にはなり得ず、彼らは三法師が幼少であるための暫定的な家督『名代』として織田権力を主導していくよりほか、なかったのである。清須会議で所論となったのは、この『名代』を信雄・信孝のどちらが務めるのかということであった。
ところが、信雄・信孝は両人ともに『名代』になることを目指し、譲らなかった。このため、羽柴・柴田ら宿老は、信雄・信孝を『名代』とせず、幼少の三法師を当主に据え、宿老を中心に、今後の織田権力の運営を進めることで決した」(『徳川家康 境界の領主から天下人へ』平凡社)と新しい視点を提示している。
だが、信孝が三法師を手元に抱え、織田家の主導権を握ろうと動き、柴田勝家や滝川一益と手を結んだことで、秀吉は信雄と組んで対抗、翌天正11年(1583)4月、賤ヶ岳の戦いへと至る。この戦いで秀吉は勝家を滅ぼし、信雄は信孝の拠る岐阜城を攻めてその身柄を拘束し、自害に追い込んだ。
戦後、秀吉は巨大な大坂城の築城をはじめ、自身が天下人としてふるまいはじめる。こうした状況に不満を抱いた信雄だが、柴氏は、「信雄は尾張・伊勢・伊賀三ヵ国を領有することになった一方で、秀吉から『二度と天下に足を踏み入れぬ』ようにされた。
三法師もまた、近江安土城から坂本城(滋賀県大津市)へ移される(「十六・七世紀イエズス会日本報告集」)」(前掲書)。こうしたなか、「秀吉と信雄両者の間は険悪な情勢となった」(前掲書)と述べる。
そんな信雄が頼った相手が、隣国の徳川家康であった。家康は信孝派とは結ばず、一貫して秀吉や信雄と親しく接してきた。前年の天正11年(1583)正月には、尾張国星崎で家康と信雄は会っている。しかし、秀吉と信雄が決裂すると、家康は信雄の要請を受けて羽柴秀吉と戦うことを決意する。
かくして信雄が天正12年3月6日、秀吉と親しい三家老(岡田重孝、浅井長時、津川義冬)を誅殺して秀吉と断交すると、家康はついに秀吉打倒の兵を挙げた。
当時、秀吉が動員できる兵力は10万。対して家康は信雄と合わせても2、3万程度に過ぎなかった(諸説あり)。これだけ見ると、勝ち目は薄いように思える。
しかし家康は、兵力5万はくだらない北条氏政・氏直と同盟を結んでおり、四国の長宗我部元親や紀州の雑賀衆や根来衆、越中の佐々成政なども秀吉と反目していた。こうした反秀吉勢力を結集すれば、十分勝算はあると判断したのだと思う。
そもそも、家康の狙いはどこにあったのだろうか。
単に、織田の家督である信雄をないがしろにする秀吉の増長を見て、義俠心を覚えたのか。あるいは、強大化する秀吉の勢力を抑えようとしたのか。はたまた、秀吉を滅ぼして自分が天下人になろうと考えたのか。
残念ながら一次史料がないので、その真意は不明だが、おそらく秀吉の力に歯止めをかけたかったのではなかろうか。もし信雄が秀吉に滅ぼされることになれば、家康の領国は羽柴領と接することになり、自身の存続にかかわる問題に発展するかもしれないからだ。
3月8日、家康は岡崎城を発し、13日に尾張の清須城で信雄と会同した。その後、家康と信雄は、尾張国小牧山城を本陣とした。
この状況をみた秀吉も3万の軍勢を連れて大坂を発ち、尾張国楽田に本陣をすえた。総兵力は徳川・織田連合軍2万に対し、秀吉方はあわせて10万だったとされる。
4月6日、秀吉は密かに家康の本拠地を突こうと、三好秀次(後の関白豊臣秀次)を総大将に1万6000を三河へ進発させた。この作戦は、池田恒興、あるいは森長可が強引に主張し、仕方なく秀吉が許可したとされる。
だが、この動きを察知した家康は、ただちに4500を先発させ、自らも信雄と共に9000を率いて三好軍の後を追ったのである。小牧山に駐屯していた3分の2の兵力が移動したわけで、これはまさに家康の賭けだった。
結果、長久手の岩崎において三好軍を瓦解させ、敵将である池田恒興・元助父子と森長可らを討ち取った。
興奮したのだろう、家康はその日のうちに、家臣の平岩親吉と鳥居元忠に宛てて、
「今日九日午之刻、於(愛知郡)岩崎之口及合戦、池田紀伊守(元助)・森庄蔵(長可)・堀久太郎(秀政)・長谷川竹(秀一)、其他大将分悉人数一万余討捕候、即可遂上洛候間、本望可被察候」(『愛知県史 資料編12 織豊2』所収)
と認めている。池田恒興・元助父子や森長可(堀秀政と長谷川秀一の戦死は誤報)ら敵の大将はじめ一万余りを討ち取り、このまま上洛すると豪語しているのだ。
勝利に気を良くして、秀吉を駆逐して上洛を目指す気持ちになっていることがわかる。この長久手の戦いが、徳川・織田連合軍の大勝利だったことは疑いない。
京都の神官・吉田兼見の日記『兼見卿記』、奈良興福寺の英俊の『多聞院日記』、堺の津田宗及ら津田氏の記録『天王寺屋会記』、紀伊国鷺森にいた本願寺顕如の右筆・宇野主水道喜が記した『顕如上人貝塚御座所日記』にも、家康が大勝利したことが記されている。
ただ、家康が言うように1万余りを討ち取ったというのは、事実かどうかわからない。
家康側の史料である『松平家忠日記』には、さらに輪をかけて「壱万五千余討捕候」(前掲書)とあるが、織田信雄の書状には「一万余討捕候」というものもある。また「大将分皆討捕候、惣人数七八千人討捕候」(前掲書)ともあり、後者を採れば家康の認識より少ない。
興味深いのは、『顕如上人貝塚御座所日記』だ。当初「軍兵一万余討死」とあるが、「已後ノ沙汰ハ三千計死ト云々」と加筆されている。まあ、おそらくこのあたりが実数だったといえるだろう。
とはいえ、戦国の合戦で3000人を討ち取るというのは、驚くべきことである。しかも、信長の乳兄弟で、織田家の宿老だった池田恒興が戦死したのだ。
彼の死は、大きな波紋を呼んだ。恒興は摂津国(大坂・尼崎・兵庫)に十数万石の領地を持っていたが、主君の戦死で池田家中は大きく動揺したようで、秀吉は、恒興の母や重臣たちにたびたび書簡を送り、家臣たちの離散防止につとめている。
いずれにせよ、一般的にこの勝利が大いに喧伝され、それが後世にも伝わり、まるで小牧・長久手の戦いは、家康の勝利だったようにいわれることが多い。だが、その認識は正しくない。長久手の勝利は4月のこと、じっさいの戦いは11月まで続いているのだ。
更新:11月21日 00:05