結城秀康像(福井県福井市、県庁舎前広場)
大河ドラマ「どうする家康」で、松井玲奈さん演じるお万の方が話題となっているが、その子・結城秀康はどのような人物だったのだろうか。幼少期は父・家康が対面しようとせず、十代には秀吉のもとに人質に出され、さらに結城家の養子となり……。若き頃は不遇をかこった秀康だが、 その生涯は徳川の歴史を語るうえで、大きな意味を持っていた。
元亀3年(1572)の三方ケ原の戦いで、徳川家康は武田信玄に完膚なきまで打ちのめされた。
天正元年(1573)に信玄が亡くなったことを知ったとき、家康は「やれやれ」と胸をなで下ろしただろう。もっとも、それは束の間で、信玄の後を継いだ武田勝頼が、父以上に家康の所領である三河・遠江へ攻勢をかけてきた。
遠江の多くを侵食され、三河でも山家三方衆が離反するなど、武田との戦いは厳しさを増す。
家康の次男として結城秀康が生まれたのは、遠江の要衝である高天神城が勝頼によって落とされた天正2年(1574)のことである。
母のお万の方が出産した場所は、浜名湖に面した宇布見村(現・浜松市西区)の豪農の家だった。そのことから、「築山殿の女房だったお万の方に、家康が手をつけた。これを怒った築山殿が、浜松城で産ませなかった」という説がある。
しかし近年、お万の方が築山殿に仕えていたことは疑問視されていて、浜松城外で生まれたことと秀康の境遇は関係がないと、私は考えている。
深溝松平家の松平家忠が残した『家忠日記』によると、浜松城は築城途中で、安心して出産できる場所が城内になかったという。だから、宇布見村で産んだと見るほうが、説得力があるのではないだろうか。
ただし、秀康がかわいそうな境遇にあったことは確かである。
たとえば、家康は秀康をわが子としてなかなか認知しなかった。見かねた兄の松平信康が親子の対面をさせたと、新井白石の『藩翰譜』に載っている。3歳くらいまで認知しなかったのは、「秀康は本当に自分の子なのか」という疑念を、家康が持っていたことも考えられる。
というのも、後の大奥につながる「奥」のシステムが、その頃の浜松城内に存在せず、お万の方が他の男性との間に子どもをなすことは可能だったからだ。
また、幼少時の秀康は本多重次に預けられ、中村家で育った。重次は重臣の一人ではあるものの、トップクラスではなく、家康は後見役として序列の高い人物をつけなかったことになる。
秀康を跡継ぎとして育てようと、家康が考えていなかったと見ることができるだろう。
さらにいうと、顔つきが魚のギギに似ていたことから「ギギ」と呼ばれ、「それではかわいそうだ」というので、周りが「於義伊様」というようになり、やがて「於義丸」といういかにも幼名らしい名前に変わっている。
このあたりからも、家康がかわいがっていなかったことがうかがえるのである。
天正7年(1579)、「松平信康事件」が起こった。
これは、家康の嫡男で岡崎城主だった信康と母の築山殿が、家康の命で殺された事件だが、信玄と息子の義信の争いと同じく、方針をめぐっての衝突だった。
天正3年(1575)の長篠・設楽原の戦いで、家康と織田信長の連合軍が勝頼を破ったが、それで武田が衰えたわけではない。まだまだ影響力があり、特に「奥三河」と呼ばれる地域では、武田の勢力が強かった。
信康を中心とする若い岡崎家臣団は、そういった勢力と裏でつながり、信長との同盟を捨て、武田と手を結ぼうと考える。
一方、家康を中心とする浜松家臣団は、信長との同盟を維持し、武田と戦い続けようとした。
「織田と組むか、武田と組むか」
この路線対立が、事件の背景にある。
通説では、信長の「築山殿と信康を殺せ」という命令に、家康は仕方なく従ったとされる。しかしそれは、家康を悪者にしないためのつくり話であり、二人を殺したのは家康独自の判断だろう。
その際、信康の廃嫡でなく、自害させることになったのは、その半年前に徳川秀忠が生まれたことが影響したのではないか。
つまり家康は、「信康を切腹させても、跡継ぎの候補は2人いる」と思ったのだろう。
ちなみに、この事件は家康が子育てに失敗した結果、という感じがしないでもない。
何が失敗かというと、浜松城に移るとき、十代前半と若い信康を岡崎に残して、岡崎城主にしたことだ。
本来ならば、まだ親の側で育てるべき年ごろにもかかわらず、比較的早くに自立させたことが、後に信康が暴走する伏線になったように思える。
更新:11月23日 00:05