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家康の次男・結城秀康~「ギギ」と呼ばれた幼少期、不遇を乗り越え期待に応えたの男の生涯

2023年05月27日 公開
2023年05月29日 更新

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

 

秀吉の人質から、結城家へ

天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの後、羽柴(豊臣)秀吉と和睦した家康は、元服前の秀康を人質として大坂に送った。

一方の秀吉は秀康を養子として迎え入れるが、「家督を継がせよう」という意識はなかった。名目上、そういう形を取っただけである。

それでも、「家康の子どもを大事にしてやろう」とは考えていて、元服のときに自分の名乗りの一字「秀」を与え、家康の「康」と合わせて秀康と名乗らせている。

天正15年(1587)、秀吉の九州攻めで秀康は初陣を果たし、日向まで兵を進めた。

どういう手柄を立てたかはあまり記録に残っていないが、秀吉の養子という立場で、それなりに遇されたと思われる。

もっとも、「一度、羽柴家の人間になった」「秀吉のところへいった男だ」と、家康は秀康と距離を置くようになった。

また、秀康に自分の教育を施すことはできなかったが、秀忠は自分の手元で育てているから、自らの遺志を継がせる点で「秀忠が勝る」と捉えても不思議はない。

そういったことを踏まえると、秀吉の養子になった時点で、秀康は家康の後継者候補から完全に外れたと考えられる。

その秀康が結城家へ養子に出されたのは、天正18年(1590)である。

息子のいない結城晴朝から「跡継ぎが欲しい」と相談された秀吉が、秀康を選んだのだ。

結城家は藤原秀郷の末裔とされ、武家としては名門の家柄でも、石高は10万1千石であり、北関東の小さな大名に過ぎない。それでも、秀吉の意向なので、家康は承諾したのだろう。

 

関ケ原と後継者問題

慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで、秀康は宇都宮に置かれた。

会津の上杉景勝を討つために下野に入った家康は、福島正則たちを先陣として西へ送り、自身も西へ向かおうとした。

その時、秀康が「自分も従軍したい」と求めると、家康は「上杉は謙信以来の武勇の家である。それを阻止できるのはお前しかいない」といって、秀康を宇都宮に残したとされる。

秀康の武将としての力量を家康が買っていたから、上杉景勝への備えにあてたのは事実だろう。そうでなければ、関東を留守にして、自分が上方へ向かうことなどできない。

しかし、「もう一つの真相」があると、私は考えている。

この頃の家康は、跡継ぎを秀忠と決めていた。もし、秀康が石田三成方との戦いに活躍すれば、その株が上がって、周りは「家康のあとは秀康だ」と見る恐れがある。そうなったら、後継者問題がスムーズにいかなくなる。

つまり、「秀康に手柄を立ててもらっては困る」というのが、家康の本音だったのではないだろうか。秀康でなく、秀忠に兵を与えて、西に向かわせたのは、手柄を立てさせたいという思惑が見て取れるのである。

しかし、秀忠は上田城攻めに苦戦し、関ケ原の決戦に間に合わなかった。このことで、家康の目論見に支障が生じる。

徳川家の正式な記録である『徳川実紀』には、関ケ原の戦いの後、家康が四人の重臣――井伊直政、本多忠勝、本多正信、大久保忠隣――を呼んで、跡継ぎを誰にしたらいいかを相談したとある。

それによれば、本多正信は秀康、井伊直政は秀忠の弟の忠吉、大久保忠隣は秀忠を推し、本多忠勝は意思表示をせず、意見が割れたという。

後継者をめぐる意見の対立を露呈する話だけに、これが本当にあったことか簡単にうなずけないが、その可能性を否定できるわけでもない。

豊臣家五大老の一人だった家康は、伏見、大坂にいることが多く、正月に江戸城へ登った家臣は、新年の挨拶を秀忠にしていた。そのため、徳川家臣団の中で「家康のあとは秀忠が継ぐ」というのが暗黙の了解になっていたと思われる。

ところが、大事な戦いに秀忠が遅参してしまった。そこで「家臣たちを納得させる必要がある」と考えた家康が、後継者に関する議論をさせたことは、十分考えられるのである。

 

家康からの期待

関ケ原の戦いの後、これまでの功績を認められた秀康は、越前68万石余に封じられる。これは加賀前田家に次ぐ大封である。それに見合うよう、秀康は柴田勝家が拠った北庄 城を改修・拡大させていった。これが、のちの福井城である。

江戸時代の絵図からは、福井城は総構えに近く、かなりの規模の城下町を有していたことがわかる。

なお、福井城の縄張りは、家康によるものとの説がある。これが本当だとすれば、家康は自分が考える体制づくりの礎の一つに、福井城を位置づけていたと捉えられるし、不遇ともいえる扱いを受けてきた秀康が、関ケ原後は期待されていた証といえよう。

実際、越前は加賀の前田家をおさえるためにも重要な地であり、仮に前田家と大坂の豊臣家が結んだ場合、その連携を断つための重要な防波堤となる。つまり、秀康を越前に置くことは、徳川幕藩体制づくりにおける重要な意味を持っていたのだ。

ところが、越前襲封から6年後の慶長12年(1607)、秀康は34歳の若さで世を去ることとなる。

兄の信康や弟の秀忠と比べると、秀康について語られることは少ない。

しかし、秀康は幼いころから不遇をかこちながらも、与えられた役目を一所懸命に務め、徳川家のために一生を捧げた。その生涯は、徳川幕藩体制確立期に、重要な役割を果たしたキーマンの一人と評していいだろう。

この評価は、決して過大なものではない。秀康の家系は「越前松平家」として幕府内で重きを置かれる存在として続いた。そして、幕末には松平慶永(春嶽)を輩出するなど、政治史の上で重要な役割を果たした家といっていいのである。

 

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