小田原城
相模の戦国大名・北条氏康は「関東独立国家」の樹立を目指して、領国を統治するための組織づくり、そして撫民政策に注力した。北条氏の政権運営は民主的と捉えられるものだったという。小和田哲男氏が、氏康の優れた政治手腕について詳しく解説する。
※本稿は、小和田哲男著『教養としての「戦国時代」』(PHP新書)より、内容を一部抜粋・編集したものです
桶狭間の戦いを遡ること14年の天文15年(1546)。後の織田信長を彷彿とさせるかのように、一人の若き武将が寡兵をもって大軍を破り、歴史の表舞台に躍り出た。
相模の戦国大名、北条氏康。始祖・早雲より五代100年にわたり関東に覇を唱えた北条氏の三代当主である。このとき、関東管領・上杉憲政を中心とする8万5千の大軍に河越城を包囲されたが、氏康は居城・小田原城から僅か8千の軍勢で援軍に向かい、夜襲をかけてこれを打ち破った。
世にいう「河越夜戦」である。
この戦いに勝利した氏康は、窮地から一転、関東戦国史の主役となった。そして関東平野において、上杉謙信、武田信玄らの強豪を相手に激戦を繰り広げることになる。
ところで、上杉謙信が旧秩序の回復を目指し、武田信玄が上洛を目指したことはよく知られている。しかし氏康は、この二人とも、また他の戦国武将とも異なる、独自の「志」を持っていた。
戦国時代、武田信玄、織田信長など、上洛を目指した有力武将たちがいた。彼らには京の朝廷、幕府に認められ、天下に号令しようという野望があっただろう。天下を目指さない謙信でも、上洛には大きな意味を見出していた。
しかし、氏康は違った。氏康が目指したのは上洛ではなく、「関東を制覇し、独立国家を築く」ことであった。
それには、関東の精神風土が大きく関係している。かつて平将門は朝廷から独立した国を関東につくろうとし、また源頼朝は鎌倉幕府を開いて、東国に武家による独立政権を樹立した。
そうした、中央とは一線を画す独立的精神が、「関東を制した者こそ武家の棟梁」という伝統として根付いていた。
その証拠に、氏康が誕生する少し前の古河公方・足利成氏は、朝廷とは異なる年号を使用している。それは、中央の支配に服さないことを意味した。
「戦国武将は誰もが上洛を目指していた」と思われがちだが、関東においては、必ずしもそうではなかったのである。
氏康が目指したものとは、平将門、源頼朝以来の東国・関東独立国家樹立という、一大壮挙だったのである。
氏康が目指した独立国家とはどのようなものだったのだろうか。それを語る上で、欠かせない人物がいる。氏康の祖父・早雲と父・氏綱である。
長享元年(1487)、伊勢新九郎と名乗っていた早雲は、姉・北川殿の嫁ぎ先である今川氏の内訌(ないこう)を治め、恩賞として駿河の興国寺城を与えられた。
一城の主となった早雲は、幕府の出先機関である伊豆の堀越公方を滅ぼし、伊豆を領国化。さらに相模にも進出して、今川氏から独立した大名になる。
この間の早雲の行動は、下剋上の典型とされ、また、権謀術数を用いたことから、「梟雄(きょうゆう)」とも呼ばれる。しかし、伊豆を領国化したとき、早雲は「梟雄」に似つかわしくないことをしている。
当時、領民は年貢を5、6割とられるのがふつうであったが、早雲は、4割に軽減し、それだけではなく、伊豆で伝染病が流行すると薬を取り寄せて、医療活動を行なったりもした。いわゆる撫民政策の先駆けといっていい。領民は大いに喜んだという。
早雲が善政を布いた理由として、私は、彼が京都の禅寺で修行していたことに注目している。当時の禅寺では、儒学が盛んだった。儒学は、徳によって国を治めることを重んじている。
一説に素浪人ともいわれるが、実際には室町幕府の申次衆を務めたこともあり、おそらく京における権力闘争、政治の腐敗を目の当たりにしたのだろう。
中央に嫌気がさした早雲は、関東に独立国を築き、儒学に則った理想郷を築こうとしたのではないだろうか。撫民政策はその思いの発露だったのだろう。
また、独立志向を表明するかのように、鎌倉でこんな和歌を詠んでいる。
枯るる樹にまた花の木を植ゑそへてもとの都になしてこそみめ
この和歌には、古都鎌倉を復興しようという意志と、関東の主になりたいという願望がこめられているのだろう。
息子の氏綱は、この早雲の志をよく理解していた。そして、姓を伊勢から北条に改める。鎌倉幕府の執権・北条氏を意識したもので、関東の支配を視野に入れたものだった。
また氏綱は、大将の心得を説いた五箇条の書置を氏康に残しているが、その中には、「華麗を好めば領民を苦しめ、倹約を守れば、武士はもとより領民みな豊かに暮らせる」とある。
氏綱は早雲に倣って、領民と融和した国づくりを目指し、それを氏康に伝えようとしたのである。氏康の目指した独立国もまた、まさしくそのような「理想郷」だった。
更新:11月21日 00:05