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北条氏康が志した「関東独立国家」...領民の支持を獲得できた民主政治とは?

2023年04月14日 公開
2023年05月11日 更新

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

 

相当高いレベルに達していた氏康の組織づくり

「関東独立国家」を目指す氏康だったが、周囲の情勢はとても厳しいものだった。早雲の時代、関東では関東管領の山内上杉氏、扇谷上杉氏、そして古河公方が鼎立していた。早雲と氏綱は、この三者が争いあう隙を巧みに突いて、勢力を伸ばしていった。ところが氏綱が没すると、状況は一転してしまう。

両上杉氏は反北条で結託し、共同で河越城を包囲。さらに、北条氏と婚姻を結んでいた古河公方までもがこの包囲に加わったのである。これが「河越夜戦」の発端である。

氏康は、この戦いに奇跡的勝利を得た。しかし勝ったとはいえ、駿河の今川義元、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信など、周囲にはさらなる強敵が待ち構えていた。

この状況下で、「志」を貫くために、氏康は、戦法、組織づくり、撫民政策に力を入れていく。氏康の戦法については、『北条五代記』に興味深い記述が3つある。

第一に、面白いことに、氏康は京から軍法の達人を招いていたという。氏康は関東武士にはなじみの薄い、上方の軍法を導入していたようなのだ。

第二に、氏康は家臣たちにこう説いている。「用兵術でいい案があれば、たとえ身分が低くとも、遠慮せずに直接氏康まで上申せよ」。家中より広くアイデアを募っていたわけで、かなり変化に富んだ戦い方がとられたのではないだろうか。

そして第三に、軍評定のときはいろいろな意見を出させた上で、多数意見に従っていたという。

北条氏の軍評定といえば、「小田原評定」として「いつになっても決まらない会議」の代名詞になってしまっている。しかし、氏康は軍事だけではなく、政策遂行、訴訟採決でも評定を重視していた。本来は、北条氏がいかに民主的に政権を運営していたかの証左なのである。

さて、徐々に版図を拡大した氏康は、領国を統治するための組織づくりにも取り組んでいく。それが「支城ネットワーク」である。

北条氏の親族が有力支城を守り、周辺地域を支配するというもので、地域内の武士・農民は一朝事あれば支城に集結し、攻撃、守備において迅速な対応を可能にした。そして最終的には、当主である氏康がすべてを統括した。

このネットワークづくりの過程で、氏康は「養子送り込み」という戦略を用いている。上杉憲政の重臣、大石氏と藤田氏を傘下にする際、徹底的に戦うことをせず、大石氏には三男・氏照を、藤田氏には四男・氏邦を養子に送り込んで、重要拠点を平和的に併合しているのである。

また、親族が重要拠点に入ることによって、強い結束力が生み出されていった。さらに検地を推進し、永禄2年(1559)には、「北条氏所領役帳」が作成された。

これは、家臣たちに軍役などを課するための基本台帳で、戦時に動員できる兵力を把握することができた。氏康の組織づくりは、当時において相当高いレベルにまで達していたのである。

 

徳川家康に継承された氏康の「志」

こうして戦うための組織づくりをした氏康だが、その「志」が最もよく表われているのは、やはり撫民政策である。

中でも注目したいのは天文19年(1550)に行なわれた税制改革だ。従来、北条領では、税が種々雑多にあった。それを氏康は段銭・懸銭・棟別銭という3つだけに整理統合し、領民の負担を軽減したのである。これは戦乱によってもたらされた領民の疲弊を改善するためのものであった。

領国内で飢饉が発生すると、徳政令を出して領民の救済を図るようなこともしている。「目安箱」の設置にも、氏康の目指すところがよく表われている。これは、「役人・代官が不正を働いたら、領民は直接北条氏に訴え出よ」というもので、役人の不正・中間搾取を取り除くためのものだった。

この時代、領民は権力の前に泣き寝入りを強いられることも多かっただろう。しかし、氏康はそうではなく、むしろ領民の思いを汲み取ろうとしていたのである。

これらの組織づくりや撫民政策は、家臣、領民にも受け入れられた。本来、北条氏は新興勢力であり、家中には、嫌々臣従した者もいたであろう。しかし、それもやがて「北条氏についていれば安心だ」という信頼感に変わっていったのではなかろうか。

永禄4年(1561)、上杉謙信は北条氏を討滅するため、10万の大軍勢で小田原城を包囲した。しかし、城内に領民をも囲い入れた小田原城はびくともせず、氏康はこれを退けた。

同様に永禄12年(1569)、武田信玄が小田原城に押し寄せたが、これも巧みな防衛戦略で撃退した。戦国最強と謳われた二人の攻撃を籠城でしのいだことは、家臣、領民の氏康に対する信頼の厚さを物語っているのではないだろうか。

氏康は、強敵に伍して領土を拡大し続け、伊豆・相模・武蔵の3ケ国を中心に、上野、下野、下総、上総にまで勢力を伸ばし、北条氏を関東随一の大名にまで押し上げた。しかし、元亀2年(1571)、志半ばでこの世を去った。享年57。

その跡を継いだ四代・氏政、五代・氏直は、さらに版図を広げ、悲願の関東制覇はなるかと思われた。しかし天正18年(1590)、豊臣秀吉の手により、北条氏は滅亡してしまう。

だが、氏康の志は潰えたわけではなかった。それを継承した人物がいる。徳川家康である。北条氏滅亡後、秀吉は家康を旧北条領に転封した。おそらく、「抵抗した北条の地なら、支配に失敗するだろう」と踏んだのだろう。

だが家康は、撫民政策など氏康の政策をよく踏襲し、見事に統治した。そして幕府を開くと、幕藩体制の中で、その政策を全国に広げていったのである。

氏康の「志」は徳川260年の基礎になるほど、優れたものだったのだ。氏康を思うとき、政治とは何かを考えずにはいられない。政治とは時に、自らの栄達を求めるための道具に変わりやすい。

しかし氏康は、民を大事にする政治を心がけた。政治とは本来そういうものだろう。領民と融和した理想郷を目指す氏康の「志」は、政治の真の意味を教えてくれるのではないだろうか。

 

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