2022年11月17日 公開
高野山金剛峰寺(和歌山県伊都郡)
天正13年(1585)、高野山は窮地に立たされていた。羽柴秀吉が10万の大軍で紀州攻めを始め、高野山に圧力をかけてきたのである。
だがその時、ひとりの僧侶・木食応其が秀吉のもとに赴き、焼き討ち回避の奇跡を起こす──。
※本稿は『歴史街道』2022年11月号より、抜粋・編集したものです。
奇妙な僧侶がここ数年、高野山で起居している。
名を応其と言い、五穀断ちの行を成し遂げたことから木食上人と敬われる人物であった。
木食行は過酷な修行であったが、応其は五穀どころか十穀を断ち、ついには木の芽など限られた食材から塩分を取る極意を得て、塩まで断っている。
普通の者が木食行をすれば餓死するか、衰弱するものだが、近江・佐々木氏出身の元来屈強な武士であったためか、木食行を続けている今も壮健であり続けていた。
その応其が高野山の評定に呼ばれたのは、天正13年(1585)4月のことであった。
「羽柴の陣所へ行けばいいのだな」
座に着くなり、応其は要件の趣を口にしたため、高野山の僧たちは驚いた。
だが応其にとっては何でもないことであった。なぜなら彼は佐々木氏の縁から都と関係があり、かつ連歌の作法書『無言抄』を著すほど歌学にも造詣が深く、要人たちと交流があったからである。
その要人たちから常に天下の趨勢を聞かされていたために、高野山に何が起きているかなどすぐに理解できたのだ。
この頃、天下を収めつつあった羽柴秀吉は、亡き主君・織田信長のころから対立していた紀州に10万の大軍を差し向けていた。
紀州には幾度も強敵を追い払ってきた鉄砲集団の雑賀衆や、ルイス・フロイスに「極めて清潔で黄金に包まれ絢爛豪華」と賞せられた根来寺があったが、秀吉軍は破竹の勢いで彼らを打破した。
根来寺にいたっては3日間にわたって延焼し、秀吉に追われた残党が籠る太田城は水攻めによって落城寸前にあった。そうした最中、紀州でもっとも権威のある高野山へ降伏をうながす書状が届けられたのである。
「弘法大師(空海)以来の高野山を攻めるなど、天罰がくだろうぞ」
書状を受けた高野山では、武力を有する行人(僧兵)と、彼らに対抗する学侶たちが憤っていたが、その語調はいたって弱々しかった。
その理由は、かつて信長が敢行した比叡山焼き討ちにあった。秀吉は先ごろ、比叡山の復興を認めたものの、信長の家臣であった彼が高野山を焼き討ちしない保証などどこにもない。現に高野山と同じく紀州で権威のある根来寺が、容赦なく灰燼に帰せられている。
ただ、唯唯諾諾と秀吉の言いなりになるわけにはいかなかった。学侶の中には学問と称して贅の限りを尽くす者もおり、そのため高野山が拡張してきた所領を減らされたくなかった。
一方の行人たちは面子にこだわり、一所に命を懸けるなどと武士のような戯言をほざいていた。
──どうしようもない俗物どもだ。
応其は両派いずれにも加担せず、悟りを開く菩薩行として空海の密教を学び続けてきた。主家を織田に滅ぼされた経験から、武士がどれほど苛烈であるのか熟知している。
閉ざされた世界で汲々とする高野山の僧たちと違って、強がりもしなければ無用に恐れもせず、ただどうすれば空海の志を継ぐことができるのか、それだけを考えていた。
「戦うのなら比叡山の二の舞は必定。そうなれば比叡のお山が不滅の法灯を絶やしたように、高野のお山は大師を滅することになる」
高野山において空海は故人ではなく、今も奥之院で生きているとされている。そのため日々、空海のために供奉が運ばれており、このことは派閥に関係なく、高野山においてもっとも重要なこととされてきた。
「客僧にすぎぬこの応其を呼んだのは、秀吉との仲立ちを望んでのことだろう?」
不承不承ながら学侶と行人たちがうなずくと、応其はある物を要求した。それは高野山開基の時に著された『御朱印縁起』という記録であった。
「学侶は贅をせずに学問に励む。行人は乱暴狼藉をやめて、大師の示された行で身を清める。その条件で話すが、よろしいな?」
この案に両派は難色を示したが、「ならばすべてを失うか」と、応其が脅したために従うしかなかった。
更新:11月22日 00:05