川越夜戦跡の碑(埼玉県川越市 東明寺)
天文15年4月20日(1546年5月19日)、河越夜戦で北条氏康が勝利しました。桶狭間合戦、厳島合戦と並ぶ「日本三大奇襲(夜戦)」として知られます。
天文14年(1545)8月、駿河の今川義元と対峙していた北条氏康に、生涯最大といってもよい危機が訪れました。関東管領・上杉憲政が今川に呼応して、武蔵国河越城を氏康から奪還すべく、関八州に動員をかけたのです。
やむなく氏康は今川義元と和睦し、兵を引き上げますが、その間に上杉憲政は9月末、元河越城主の扇谷上杉朝定とともに6万5000の大軍を率いて河越城に向かい、さらに古河公方・足利晴氏の2万もこれに合流、8万5000の軍兵が城を完璧に囲みました。この時、河越城を守っていたのは「黄八幡」の旗で知られる猛将・北条綱成ですが、手勢は僅か3000です。氏康はすぐにでも城を救いたいものの、動員できる兵力は8000程度で、敵の一割にも届きません。かといって河越城を見殺しにすれば、北条の威信は地に堕ち、関東の諸将は二度と味方しなくなる恐れがありました。
氏康は腹をくくります。 氏康にとって救いだったのは、敵が数を恃むばかりで、自ら犠牲を覚悟してでも城を攻撃しようとする者がいなかったことで、なんと半年間も城攻めは膠着しました。この間に城内と連絡をつけることに成功した氏康は、一計を案じます。わざと古河公方に上杉憲政へのとりなしを頼み、また憲政にも降伏をほのめかす弱気な姿勢を見せて、敵の冷笑をかいました。さらに敵の本営に一里のところまで進出するものの、少し攻められれば反撃せずに逃げることを繰り返し、「氏康など恐るるに足らず」と敵の将兵をすっかり油断させるに至ります。これこそが氏康の狙いでした。
天文15年4月20日、その夜は月が雲に覆われていたといいます。氏康は8000の軍を4隊に分け、1隊を敵襲への備えとし、3隊をもって深夜に突如、上杉憲政本陣を襲いました。まさかの氏康の攻撃に憲政らは大混乱に陥り、乱戦の中で上杉朝定が討死。一方、氏康の攻勢に合わせて北条綱成が城を打って出て、足利晴氏軍を壊滅させます。かくして河越城を囲んだ敵は、一夜にして1万3000もの死者を出して壊乱、北条方の戦死者は100人という、10倍もの敵を相手に、氏康は日本戦史上にも稀な快勝を挙げました。これにより扇谷上杉氏は滅亡、関東管領山内上杉氏も著しく衰退し、憲政はやがて越後へ長尾景虎を頼って落ちることになります。
河越城はその後、幕末まで川越藩藩主の城となり、現在も全国でも珍しい本丸御殿が残っています。しかし城の敷地の多くが住宅地化されており、全体像をイメージするのは難しいかもしれません。まして河越夜戦ともなると、伝承にしか面影を留めていないのが実際のところです。
更新:11月24日 00:05