2016年06月13日 公開
2023年03月09日 更新
天正11年(1583)、天正壬午の乱がほぼ終息、対立していた北条氏と徳川氏が手を結ぶことになり、徳川家康の娘督姫が北条氏直に嫁ぎます。併せて、武田家滅亡後に北条が押さえていた甲斐国郡内、信濃国佐久・諏訪郡は徳川に、一方、徳川方の真田氏が領有する上野国沼田は北条に割譲されることになりました。
沼田割譲について真田昌幸は承服しておらず、これがきっかけで真田は徳川と手切れして上杉と結び、第一次上田合戦となります。その後も北条は沼田領をあきらめず、天正17年(1589)、豊臣秀吉の裁定で北条領となりました。
しかし、秀吉からの再三の上洛要請に、北条氏4代で隠居の身ながら実質的な最高指導者・氏政は腰を上げようとしません。それどころか、沼田城代の猪俣邦憲が真田領の名胡桃城を騙し取り、これが秀吉の逆鱗に触れて小田原攻めとなる経緯はドラマでも描かれました。
ではなぜ氏政は、上洛しなかったのでしょうか。普通いわれるのは、関東の覇者としての自負の強い氏政は、秀吉に頭を下げたくなく、言を左右にして先延ばしにしていたというものです。ドラマでもこの説を踏襲していました。
いかにも世の中の動きのわからぬ田舎大名としての氏政像ですが、これは本当なのでしょうか。かつては武田、上杉と互角にわたりあい、天正壬午の乱でも、存在感を示していた北条です。それほど、世の情勢に疎いものでしょうか。
謎の部分が多いですが、北条には風魔と呼ばれる乱波の配下もいたといわれます。一定の情報は入手していたと考えてもおかしくはないように感じます。
ユニークな説を投じているのが、森田善明氏の『北条氏滅亡と秀吉の策謀』。もともと秀吉は北条討伐ありきで、北条の上洛遅延も名胡桃城奪取も、実は秀吉のねつ造だったのではないかというものです。
北条氏が秀吉に対して、和戦両様の構えを取っていたのは事実で、天正15年(1587)、小田原城大普請を全領内に賦課し、また15歳から17歳までの全領民を軍事動員する計画も立案、領国の防衛強化を図っていました。
しかし、翌年には北条氏政・氏直父子が、秀吉に臣従を表明していた可能性があると森田氏は論じています。実際、北条氏規(氏政の弟)は上洛し、秀吉に謁見しているのです。
ではなぜ、秀吉は臣従を表明する北条氏の征伐を実行したのか。それは北条が従わないからではなく、広大な北条領を没収することこそが目的で、そこに徳川家康を押し込んでしまい、合わせて強大な自分の力を関東・東北の諸将に見せつけて、すべて自分になびかせる狙いがあったのではないか。
それが事実だとすると北条氏は、秀吉の天下構想の「いけにえ」にされたというより他ないかもしれません。
更新:11月22日 00:05