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徳川幕府はなぜ、260年も続いたのか~家康の巧妙な分断政策

2019年07月22日 公開
2022年06月16日 更新

童門冬二(作家)

徳川家康

優れた大名が数多く存在した戦国時代において、なぜ家康は天下人たりえたのか。また、徳川幕府はなぜ260年も続いたのか。

現代的視座から多角的な比較・分析を行い、家康が行なった巧妙な分断政策、世界に例を見ない管理システムに迫る。

※本稿は、童門冬二著『信長・秀吉・家康の研究』(PHP文庫)より、一部を抜粋編集したものです。 

 

二分化された大名の役割

徳川家康はいわゆる「御三家」をつくった。九男・義直、十男・頼宣、十一男・頼房の三人の息子をそれぞれ尾張、紀州、水戸の三藩に配し、徳川家を名乗らせた。しかしこれはかならずしも自分の息子たちを完全に信頼した上での行為ではない。徳川家康の幕府創設とその運営方針は、

「分断支配」

である。つまり組織を細分化し、それぞれに責任者を置き、責任者同士の競争によって組織全体を活性化し、これを保とうという考え方である。その大きなものが、大名をまず譜代大名と外様大名に分けたことだ。譜代大名は三河国以来、徳川家がまだ松平家といっていた当時から忠節を尽くしてきた武士が大名になったグループである。外様大名というのは、かつては織田信長や豊臣秀吉の部下だった者が、関ヶ原の合戦や大坂の陣以降徳川家に忠節を尽くすようになった連中だ。家康はこういう転向者を信用しなかった。

だから、260年間、明治維新まで、徳川政権の政策担当者はすべて譜代大名である。外様大名は絶対に幕政に参画することはできなかった。つねに政権のカヤの外に置かれた。言ってみれば譜代大名は万年与党であり、外様大名は万年野党であった。

しかし、家康の分断政策は、この大名の二分化だけではない。もっと皮肉な扱いをした。それは政権を担当できる譜代大名の給与は低く抑え、逆に政権担当者になれない外様大名の給与を莫大なものにしたのである。加賀前田100万石、薩摩島津77万石、仙台伊達62万石、肥後細川55万石、筑前黒田52万石などがその例だ。しかしそれはただ高い給与を与えっ放しにしたのではなく、参勤交代やお手伝いなどによって、これらの大名の財政がつねに逼迫するように仕向けたものだった。これも分断政策の一つだ。

 

ポストを複数制にした効果

また徳川幕府の管理職ポストを、すべて複数制にした。一人の人間に限定しなかった。老中、若年寄、大目付、諸奉行あらゆる役職ポストに二人以上の人間を配置する。そして「月番」といって、一か月交代で仕事をさせた。周りからみればそれぞれの仕事の評価が比較できる。言ってみれば、これらのポストに就いた人物は衆人環視の下で競争させられたのである。ドッグレースをさせられたのと同じだ。いきおい能力をフルに発揮しなければならない。ここにも家康の叡知があった。御三家も同じである。

御三家をつくったとき、家康は、

「徳川本家に相続人が絶えたときは、三家がよく相談をして相続人を決めるように」

と言ったという。その限りにおいては、

●家康は別に、御三家の中から相続人を出せとは言っていない
●たとえ御三家の中から候補者を出すにしても、その順位は決めていない

という曖昧なものだった。このへんは家康の分断支配の巧妙なところで、かれはいつもこういう不透明で曖昧な部分を残した。そして当事者が、ああでもない、こうでもないと考え尽くすのを期待する。意地が悪い。

しかし御三家側では、やがて、

「徳川本家に相続人が絶えたときは、御三家の中から候補者を出す」

ということに申し合わせた。が、順位については別段の定めはなかった。そのために、何回か争いが起こった。とくに、第8代将軍を決めるときに、尾張か紀州かの争いは切実なものとなり、その後にしこりを残した。

しかしこの御三家の制度は、現在でもよく問題になる後継者決定のときに、

「血か能力か」

という問題を、

「あくまでも血統を重んずる」

ということに確定したと言っていいだろう。

この血統重視の方針は、その後何回か徳川本家に相続人が絶えたときの危機に対応する有力な論理として通用した。5代将軍から6代将軍への移行のとき、7代将軍から8代将軍への移行のとき、そして10代将軍から11代将軍への移行のとき、さらに13代将軍から14代将軍への移行のときに遺憾なく発揮される。

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