この御三家制で確立された「血の尊重」を、最も有効な論理として振りかざしたのが、幕末の井伊直弼である。このときも、列強の開国要求に迫られて、日本国内は騒然としていた。有能な将軍が出現しなければ、この混乱は収まらないとみられた。そのためいままでになかった、将軍に対する期待条件として、「年長・英明・人望」の3条件が世論として湧き起こった。この世論を京都朝廷も支持した。
危機を感じた井伊直弼は、
「将軍をだれにするかということは、徳川家内部の問題だ。たとえ年少の将軍が出現したとしても、そのために老中以下補佐役が控えている。徳川家に関わりのない人物が、無責任にだれがいいなどということを言うべきではない」
と言って、当時「年長・英明・人望」の3条件を満たしていた一橋慶喜を擁立した連中を、全部罰してしまった。安政の大獄である。したがって徳川家康が創始した御三家制度は、
「徳川幕府を指揮する征夷大将軍は、すべて徳川家の血を引く者の世襲制とする」
ということを260年間守り抜いたのである。井伊直弼が主張したのも、この御三家制度に根拠を置く論理である。
その意味では、御三家だけではなく御三家を取り囲む形で、あらゆる役職、あるいは大名たちに対し分断支配の網の目を隙間なく張りめぐらした徳川家康の叡知は、世界のどの国にも例を見ないシステムを創造したと言っていいだろう。
そしてさらにこれらの武士の論理を貫くために、士・農・工・商の四階級に日本人を分断してしまった身分制度は、いろいろな問題を生む。このことは目に見えないソフトの面だけではない。
目に見えるハードの面においても、たとえば諸都市における「木戸(市内の要所に設けた警戒のための門)」などによって、夜になればそこに住む住民がまったく檻の中に住まわされているようなシステムが考案された。したがって、徳川幕府の管理は人的にも物的にも、現代で言われる「高密度管理社会」を、すでに実現していたということが言える。
更新:11月22日 00:05