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植物学者・牧野富太郎が、家族を犠牲にしてまで貫いた「草木への熱烈な恋心」

2023年04月03日 公開
2023年04月07日 更新

鷹橋忍(作家)

牧野富太郎
牧野富太郎(国立国会図書館蔵)

牧野富太郎は、NHK連続テレビ小説『らんまん』の主人公のモデルとなった人物だ。小学校を中退し、極貧生活の中でも植物への情熱を持ち続け、「日本植物学の父」と言われるほどの学者となった。波瀾万丈な生涯を送った牧野富太郎の魅力を、作家の鷹橋忍氏が紹介する。

※本稿は、鷹橋忍著『牧野富太郎・植物を友として生きる』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

『らんまん』の主人公のモデル・牧野富太郎は何をした人?

「私は植物の精である」
「花在れバこそ吾れも在り」
「植物と心中する男」
「植物の愛人としてこの世に生まれてきたように感じます」
「飯よりも女よりも好きなものは植物」

――これらは、NHKの2023年度前期連続テレビ小説『らんまん』の主人公・槙野万太郎のモデルとなった、世界的植物学者・牧野富太郎(1862~1957)の言葉である。

これらの言葉から伝わるように、富太郎はとにかく植物が好きであった。父や母、祖父や祖母をはじめ、親族にも植物好きはいなかったが、富太郎は生まれながらに、理屈抜きで草木が好きだった。いや、「恋していた」と言ったほうがいいだろう。

草を褥(しとね)に木の根を枕 花と恋して五十年

という有名な歌の他にも、

赤黄紫さまざま咲いて どれも可愛い恋の主
年をとっても浮気は止まぬ 恋し草木のある限り
恋の草木を両手に持ちて 劣り優りのないながめ

など、草木への恋心をいくつも詠んでいる。

富太郎はあまりに草木が恋しすぎて、独学で植物の研究に励んだ。そして小学校中退という学歴ながら、理学博士の学位も得て、数々の研究成果をあげ、「日本植物学の父」と称されたのだ。

そのめざましい功績により、74歳(満年齢)で「朝日文化賞」を贈られ、89歳で「第一回文化功労者」に選ばれている。没後には、従三位勲二等に叙され、旭日重光章と文化勲章が授与された。

また、彼の誕生日である4月24日は、「植物学の日」とされている。輝かしい名誉にあずかった富太郎であるが、彼はいったい何を成し遂げたのだろうか。

 

牧野富太郎が成し遂げた3つの功績

富太郎の功績は、大きく3つに分けられる。

1つ目は、「新種の植物の発見・命名、および標本収集」である。

交通機関が発達していなかった明治初期から戦後にかけて、沖縄県を除く全都道府県、および台湾と満洲(現在の中華人民共和国の東北部)をめぐって超人的な植物採集や調査を行なった。

それにより、彼は日本で最初の命名植物となった「ヤマトグサ」など、1500を超える数の植物の新種等を発見し、命名している。標本に至っては約40万点にものぼるといわれるが、あまりに膨大なため、正確に数えた人はいないという。

2つ目は、「牧野式植物図」と呼ばれる、緻密な植物図の画法を確立したことである。

観察した植物を記録する方法として、写真よりも特徴をつかみやすい図は、観察した植物を記録する方法として、当時から有効な手段だった。

富太郎もかなりの自信をもっているが、彼は比類なき描画の才能に恵まれていた。植物をルーペなどで観察し、花や実、葉や根のつき方まで正確に緻密に描き、さらに顕微鏡を使って描かれたその解剖図までもが、美しさを兼ね備えている。彼の植物図は、芸術の域に達しており、世界でも評価が高い。

驚いたことに、彼はこの画法を独学で身につけたのだ。

このたぐいまれな描画の才能は、他者の追随を許さなかった。水島南平、川崎哲也、太田洋愛など、多くの研究者や画家が、富太郎の植物図の影響を受けている。

道具にも凝り、鉛ペンシル筆、ペン、筆、蒔絵の絵付けに用いる蒔絵筆などを使い分けた。より細い線を描くために、ネズミの毛を数本束ねて、極細の筆を自作したほどだ。

3つ目は、植物知識の教育普及活動である。

富太郎は日本各地で植物採集会の指導や講演会を行ない、東京都、神奈川県、兵庫県などで植物同好会を立ち上げて、一般の人々に植物の魅力を広めた。

言語学者・国語学者の金田一春彦(1913~2004)も、富太郎の植物採集会に参加した一人である。

金田一は富太郎を中心とする植物同好会の仲間に加わり、聖蹟桜ヶ丘(東京都多摩市)あたりの山林に出かけたことがあった。

そのころ、富太郎は70代半ばであったが、同行した若者たちが草を折り取り、次々と彼にその名を尋ねると、「これはキツネノボタン」「そっちはオオバキツネノボタン」と立て板に水を流すがごとく、スラスラと答えていった。

そこで、いたずら心を起こした金田一は、紅く変色した蕗の葉をちぎって、「これは何でしょう?」と差し出した。

「もし、変な名前を答えたら、笑って差しあげよう」と思っていたところ、「フキだ」とずばり当てたという(金田一春彦『わが青春の記』)。

このように植物知識が深く幅広いだけでなく、彼の講演や指導は、ときには川柳や都々逸(どどいつ)まで飛び出すユーモアたっぷりなものでもあり、大変な人気を博した。

また、富太郎は多忙ななか、全国から寄せられる手紙や質問状にこまめに返事を書くなど、誠実に対応している。それは彼が、「学問に立場の上下は関係なく、ともに学んでいくもの」と考えていたからだ。彼からの返事をきっかけに、植物研究の道を歩んだ者もいた。

牧野式植物図を駆使した図鑑や、植物にまつわる話をつづったエッセイの出版も、一般の人々が植物に親しみ、楽しむきっかけとなっただろう。

特に78歳の年に刊行された『牧野日本植物図鑑』は、植物愛好家には必携のものとなった。現在まで改訂を重ね、多くの図書館に蔵書されているので、目にしたことのある方も多いだろう。

以上が、富太郎の主立った功績である。

学者としての功績の次は、人間として、牧野富太郎をみていこう。彼はどのような人物で、どのような人生を送ったのだろうか。まずは、牧野富太郎の生涯を、簡単に振り返ってみたい。

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