2017年08月18日 公開
2023年04月17日 更新
慶長3年8月18日(1598年9月18日)、豊臣秀吉が没しました。「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」 秀吉の辞世として知られます。裸一貫から天下人に成りあがり、位人臣を極めた男の辞世にしては、人の世のはかなさのようなものを感じます。
秀吉が臨終の間際、五大老を枕元に呼んで、「秀頼のこと、くれぐれも頼み参らせ候」と、幼い秀頼への忠誠を繰り返し誓わせ、行く末を頼んだことは有名な話です。これを「三国志蜀書」の劉備の最期と比較する向きもあります。劉備は死に臨み、駆けつけた諸葛孔明に、「(我が子)劉禅が君主に相応しい器なら補佐してやって欲しい。もしそうでなければ君(孔明)が彼に取って代わって皇帝となり、蜀を治めてくれ」と言いました。つまり天下のために、天下を統べるに相応しい人物が皇帝となるべきと劉備は言ったとされるのです。しかし、実はこれは額面通りの言葉ではなく、「それほどお前を信頼しているから、息子を頼むぞ」という、孔明に忠誠を誓わせる劉備一流の言葉なのですが、それでも天下を思うというジェスチャーを劉備は示しました。一方の秀吉はというと、けれんも何もなく、ひたすら秀頼の行く末を頼み、かつての人たらしぶりを彷彿とさせる言葉もありません。天下のことよりも、まずは豊臣家の安泰を願う心が先行していたかのようにも受け取れます。
秀吉は何を目指して天下を取ったのでしょう。本能寺の変によって、織田の一部将の眼前が急に開け、天下が姿を現わします。そして競争相手はと見れば、いずれも自分を凌駕する者はいない。唯一、徳川家康がしぶとそうですが、当時の秀吉には勢いがありました。軍事的覇権を握り、官職で旧主織田を凌ぐことで、実質的な秀吉政権を樹立します。さらに秀吉は関白にまで昇進することで、天下人としての地位を正当化しました。しかし、それはあくまでも建前に過ぎず、譜代の家臣でもない武将たちが神妙に従っているのは、気前の良い秀吉が良い目を見させてくれるのと、強大な武力と財力の前にひれ伏しているだけです。そのことを一番良く知っていたのが、秀吉本人だったのではないでしょうか。
目の前にぶら下がっていた天下をつかんだ秀吉ですが、何のために天下を取るか、天下を取って何をするかをどこまで考えていたのか。もちろん天下を取れば戦は止み、平和が訪れるのですが、秀吉は大名たちを休ませずに城の普請に駆り立て、朝鮮出兵を催します。働かせて、それに対する褒美を与えることで、大名たちとの上下関係を維持しようとしたのかもしれません。しかし、それも秀吉が健在であればこそ。「自分が倒れれば、神妙な顔をしていた大名たちは、たちどころに言うことを聞かなくなるだろう。そうなれば幼い秀頼はどうなってしまうのか…」。そうした秀吉の思いが、臨終間際の秀頼を頼むという懇願だったような気がします。
そして「自分はなるほど天下を取り、位人臣を極めた。しかし自分が死ねば、何が残るか。権力も武力も消え失せ、残るのは秀頼一人。しかしその一人息子の安泰さえ覚束ない」。天下人も死ぬ時は身一つ。その事実に気づいた秀吉の辞世が、「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」だったとすれば…。
人間が思い残すことなく笑って死ねるかどうかは、天下人も社会的名声も一切関係ないのかもしれないという気になります。
更新:12月12日 00:05