2017年06月26日 公開
2019年05月29日 更新
天正10年6月27日(1582年7月16日)、清洲会議が行なわれ、信長亡き後の織田家の後継者と、領地の再配分が決められました。主要メンバーは柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の4人でした。「清須会議」は三谷幸喜さん原作で映画にもなりましたが、はたして実際のところはどうであったのでしょうか。
すべては6月2日の本能寺の変から始まります。明智光秀が織田信長とその後継者・織田信忠を討ったことによって、織田家は核となる人物を失ってしまいました。この時、備中で毛利の大軍と対峙していた羽柴秀吉が、まさかの中国大返しを実行に移し、明智光秀に対して、信長の「弔い合戦」を挑んだことはよく知られています。主殺しの汚名を着た光秀に対し、弔い合戦という大義名分を得た秀吉には、本来光秀の組下であるはずの摂津の中川清秀や高山右近らも味方しました。さらに尼崎まで戻った秀吉は、四国に攻め込むはずであった信長の3男・神戸信孝と後見役の丹羽長秀を陣営に迎え、信孝を名目上、上に戴くことにします。 光秀との戦いを「私戦」と見なされることを防ぐためでした。もちろん実権は秀吉にあります。かくして6月13日、秀吉は光秀軍を山崎の合戦で破り、光秀を敗死させることで、「主君の仇」を討ったと大いに喧伝したのです。
しかし、信長・信忠父子の不慮の死によって、天下の行方は不透明になっていました。織田家の跡目を継ぐべきは誰なのか。もし織田家中に内紛が起こり、それを火種に再び世が乱れれば、それを収拾しリードしていく実力者は果たして誰なのか。そこで織田家継嗣問題と領土の再配分を審議すべく、6月27日、織田家重臣のトップメンバーが尾張清洲に集結したのが、清洲会議です。 メンバーは前述の通り、重臣筆頭の柴田勝家に丹羽長秀、2人より格下ながら信長の乳兄弟である池田恒興、そして山崎の合戦で光秀を討つ殊勲を挙げた羽柴秀吉でした。本来、重臣として滝川一益も加わるべきところですが、関東で北条氏に大敗して伊勢に逃げ戻ったばかりで、参加資格なしとされたようです。また後継者として最も近い立場である、信長の2男・信雄と3男・信孝は、家督をめぐってすでにいがみ合っており、会議には参加しませんでした。あるいは2人に、何らかの秀吉の手が伸びていた可能性もあります。
この頃の秀吉には、すでに天下取りへの青写真ができあがりつつあったはずです。その構想には、配下の黒田官兵衛あたりも大いに知恵を働かせたことでしょう。形勢を見れば、宿老である柴田勝家は、自ら後押しする3男・信孝を後継者に推すはず。もし信長の息子が後継者になってしまえば、織田家家臣に過ぎない秀吉が天下を奪える目はほとんどなくなります。秀吉にとって最も都合が良いのは、自分が操縦しやすい人物を後継者に立てることでした。すなわち亡き信忠の遺児で、まだ3歳の幼児である三法師の擁立です。
しかし、それを実現するには、同調者が必要でした。 幸い清洲会議に参加する4人のうち、丹羽長秀と池田恒興は山崎の合戦に加わっており、秀吉に近い存在です。そこで会議のもう一つの議題である遺領配分において、彼らの希望する線を自分が支持することを、秀吉はあらかじめ2人に伝えておいたはずです。そうした根回しをしっかり行なった上で、秀吉は清洲会議に臨んだのでしょう。
会議では、予想通り勝家が信孝を推しましたが、秀吉が三法師を推すと、池田恒興が賛意を示し、丹羽長秀も同調しました。勝家にすれば思わぬ展開であったかもしれません。結局、他の武将も賛成して、三法師が近江坂田郡2万5000石を所領とし、織田家の継承者となります。代官は堀秀政でした。領土の分配も、丹羽長秀が旧領の若狭に加えて近江にも所領を増やし、池田恒興、堀秀政、中川清秀、高山右近らも畿内に所領を増やして、希望は満たされます。柴田勝家は秀吉の本領・近江長浜を甥の柴田勝豊が得たものの、勝家本人は越前安堵です。一方、秀吉は勝家側に近江長浜を譲ったものの、代わりに山城を得て、山城・河内・丹波を押さえました。とりわけ京都を支配下に置いた秀吉の発言力が高まるのは当然だったでしょう。
清洲会議の結果、秀吉の優位性が高まり、翌年の勝家との決戦である賤ヶ岳合戦につながることになります。 それにしても、会議が始まるまでに決着をつけるという秀吉のやり方は、合戦が始まるまでに戦いの帰趨を決してしまう手法に通じるものがあります。根回しというとあまりいい印象を持たれないかもしれませんが、しかし、勝利の秘訣は結局、ここにあるのかもしれません。
更新:11月22日 00:05