2017年06月06日 公開
2023年03月31日 更新
天正10(1582)年6月、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉は、本能寺の変で織田信長の横死を知るや、速やかに毛利と和睦し、明智光秀討伐のために京に向けて全軍を取って返します。いわゆる「中国大返し」です。今回は、この強行軍と驚異のスピードに注目してみましょう。
備中高松城から山崎まで、およそ200km。秀吉は8日間ほどで踏破し、そのスピードは戦国屈指の強行軍ともいわれます。スタート日がいつなのかで意見は分かれるようですが、最も有力説とされる6月6日に高松城を出立、13日に山崎着と考えれば8日間、1日平均25kmを移動したことになります。もちろん指揮官クラスは騎馬、兵卒は徒歩でしょうから、移動スピードも疲労の度合いも違ったことでしょう。
では、具体的にはどのように移動したのか。「天正十年十月十八日羽柴秀吉書状写し」によると、6月7日に27里(約81km)を一昼夜かけて、(高松城から)姫路城まで移動したとあります。一昼夜で高松城から姫路城というのは、秀吉好みの誇張のようにも受け取れますが、当事者たちの感覚からすると、それぐらいの強行軍であったという実感であったのかもしれません。実際はおおよそ次のような行程ではなかったかといわれます。
こうして見ると、7日から8日にかけての移動が、一番のハイライトであったことがわかります。おそらく騎馬であれば、70kmは難なく移動できるでしょうが、徒歩であれば2日、あるいは夜通し歩けば、秀吉の書状通り一昼夜であったかもしれません。 いつ毛利軍が追撃をかけてくるかもわからない中で、秀吉軍の将兵は、まずは姫路にたどり着きたい、という思いであったはずです。姫路城であれば、将兵も心置きなく休養できる。だからこそこの2日間は、無理をしてでも姫路へと急いだのでしょう。
また秀吉にすれば迅速に移動するだけでなく、諸国の武将に自分が毛利と講和し、まもなく信長の弔い合戦を行なうことを書状で知らせて、味方につける必要がありました。その書状発送の時間を捻出するためにも、8日の姫路城滞在は重要な意味を持っていたはずです。
一方で明石到着以後は、日々の移動距離が30kmを切るようになります。これは単に急ぐのではなく、光秀に味方する者などの襲撃を警戒しつつ、無傷の大軍が仇討ちに向かっていることを諸方に喧伝する意味があったのでしょう。とりわけ、池田・中川・高山の摂津衆、そして織田信孝・丹羽長秀の四国討伐軍の合流を促すことが大きな狙いであったと思われます。
その一方で、秀吉は先遣隊を先発させてもいたようです。実は秀吉が富田に到った12日、すでに光秀方の勝龍寺城に鉄砲を撃ちかけて、小競り合いを始めている部隊がいるのです。これなどはおそらく騎馬で構成した機動兵力を先発させることで、いち早く「秀吉軍到着」を宣伝して味方を募るとともに、光秀側を慌てさせる狙いもあったのでしょう。
いずれにせよ、宇喜多勢を毛利への押さえに残した秀吉軍2万~3万は、200kmを踏破して山崎に到り、その時には合流した者を加えて軍勢は4万余りに膨れ上がっていました。まさに時間と勢い、人心を味方につけた羽柴秀吉。その速さと無傷の軍勢を巧みに宣伝して、形勢まで自軍に有利にプロデュースしていった秀吉や黒田官兵衛は、まさに一世一代の勝負であったといえるでしょう。
更新:11月22日 00:05