2017年06月03日 公開
2019年05月29日 更新
備中高松城本丸跡にある清水宗治首塚
天正10年6月4日(1582年6月23日)、清水宗治が切腹しました。羽柴秀吉の備中高松城攻めの際、城将の助命と毛利との講和を条件に切腹したことで知られます。
天文6年(1537)、備中国賀陽郡清水村(現、岡山県総社市)の一豪族の家臣の家に宗治は生まれます。やがて備中清水城、次いで備中高松城の城主となりました。一説に、備中で三村氏と毛利氏の勢力が激しく争った「備中兵乱」の際、毛利方に味方して、備中高松城の城主になったといわれます。以後、小早川隆景の配下となり、毛利氏に対して忠勤を励み、隆景や毛利輝元から深く信頼されるようになります。
そんな宗治がおよそ5000の将兵で守る備中高松城が最前線となるのは、天正10年(1582)4月のことでした。中国攻めを進める織田信長の家臣・羽柴秀吉は、3万の兵で高松城攻めに取りかかります。しかし高松城は周囲を沼に囲まれた難攻不落の城で、何度か力攻めを試みますが、悉く失敗。そこで黒田孝高の献策を容れて、世に名高い備中高松城水攻めが始まります。
折からの雨により、秀吉方が築いた土手の内側で城は水没寸前となりました。やがて毛利輝元、小早川隆景らが4万の兵を率いて救援に駆けつけますが、秀吉軍とにらみ合いとなり、手が出せません。そこで毛利方の交渉役・安国寺恵瓊が動いて、和議を働きかけますが、信長に援軍を要請している秀吉が頷くはずもなく、戦線は膠着します。
ところが上方から秀吉の許に、驚くべき知らせが届きました。本能寺の変です。秀吉は恵瓊を呼び出し、講和の条件を示しました。備中、伯耆の勢力境界の取り決めと、高松城は城将・清水宗治が切腹することで、城兵は助命するというものです。恵瓊はさっそくその条件を、総大将の毛利輝元に伝えますが、輝元は頑として承知しません。忠臣・清水宗治を切腹させるわけにはいかない、というのがその理由でした。
困った恵瓊は密かに高松城に入り、宗治に会って、経緯をありのまま話します。すべてを聞き終えた宗治は感に堪えぬ面持ちで「毛利の御家の安否よりも、それがし如きを重んじてくださいましたこと、わが面目、これに過ぎるものはありません。かくなる上は一命をなげうち、毛利家のお役に立ちたく存じます。しかし御両三殿(毛利輝元、吉川元春、小早川隆景)にその意をお伝えしても、切腹はお許し下されぬでしょう。ならば拙者は上意に背いても切腹しますので、城兵たちを必ず無事に毛利本陣に送り届けることを、羽柴殿にお約束頂きたい。その上でこの事を御両三殿にご披露くださりませ」。恵瓊はすぐに秀吉の陣に赴き、宗治の言葉を伝えると、秀吉は感動を露に「宗治の望む通りとしよう」と承知し、切腹は6月4日に決まりました。
当日、宗治は側の者に命じて念入りに髭をあたらせます。首実検の際、むさくるしいと侮られないためでした。そして小舟を出して、水没しかかっている城を後にします。舟には宗治の兄・月清が同乗していました。月清は病弱を理由に面倒をすべて弟に押し付けてしまったことを詫び、せめて一緒に切腹し、死出の旅路を共にするつもりなのです。やがて湖面の中央に至ると、宗治は月清の謡で「誓願寺」の曲を舞い、対岸から望んでいる羽柴軍の喝采を浴びた後、切腹しました。享年45。辞世の句は、 「浮き世をば 今こそ渡れ武士(もののふ)の 名を高松の苔に残して」。後年、小早川隆景と再会した秀吉は、「清水宗治は武士の鑑であった」としみじみと語ったといいます。
なお、毛利との講和が成った秀吉は6月5日、堤防を破壊して帰途につきます。いわゆる「中国大返し」の始まりです。毛利の陣に紀州雑賀衆から本能寺の報せがもたらされたのは、秀吉が退却を始めた直後であったとといます。従来、吉川元春が秀吉に騙されたのを怒って追撃を主張するのを、小早川隆景が抑えたと語られてきましたが、実際は、吉川は主張していないともいわれます。本能寺の変と中国大返しという歴史的大事件に隠れがちではありますが、清水宗治という武将の潔さに、リーダーは大いに学ぶべき点があるように思いますが、いかがでしょうか。
更新:11月22日 00:05