富太郎は、江戸時代末期の文久2年(1862)に、土佐の高岡郡佐川村(現在の高知県高岡郡佐川町)にある、「岸屋」という裕福な商家の長男として誕生した。3歳で父を、5歳で母を、6歳で祖父を亡くし、祖母の手で大切に育てられた。
先に述べたように、富太郎の最終学歴は「小学校中退」である。だが、寺子屋や私塾などで、国学・漢学だけでなく、英語、物理学、生理学、植物学など、西洋近代科学の教育も受けている。
18歳のころに出会った高知中学校の教員・永沼小一郎からは、科学としての植物学の教えを受け、彼の影響で植物学への意欲が芽生ばえた。
その後、22歳のときに上京し、学生でも職員でもないにもかかわらず、東京大学理学部の植物学教室に出入りを許され、大学の書籍や標本を利用して研究に励んだ。生活費や書籍代等は、実家からの仕送りに頼った。
しかし、高価な書籍をばんばん購入するなど、湯水のようにお金を使ったこともあり、裕福だった実家も傾いていった。
26歳のころには、小沢壽衛(すえ)と所帯をもったといわれる。
31歳の年には、帝国大学理科大学の助手となり、植物学者としての道を歩きはじめた。ところが、月給は15円(現代に換算すると15万円くらいといわれる。諸説あり)。子どももたくさん生まれ、実家の財産も使い果たしていた。
それにもかかわらず、経済観念が著しく乏しい富太郎は、研究や書籍のために、惜しまず金を使った。そのため生活は困窮。牧野家は多額の借金を背負って、債権者に追われるような日々が続いた。
それでも、壽衛をはじめ、友人や後援者に支えられて研究を続け、植物採集や講演に日本全国を飛び回り、94歳9ヶ月でその長い生涯を終えた。
――以上のことからも察せられるように、富太郎はけっして聖人君子ではなかった。
「学問に立場の上下は関係ない」と信じる富太郎は、上司である大学の教授たちと対立することもあったし、家族には大きな負担をかけた。特に、壽衛の苦労は、想像を絶するものであった。とても「内助の功」という美談として、済ませられない。
富太郎の華々しい研究成果は、家族の犠牲のうえに成り立っているといっても、過言ではあるまい。周囲を気にせず、ただひたすら我が道を行く富太郎の姿に、ときには苛立ちを覚えるかもしれない。特に壽衛の苦労を思うと、彼に嫌悪感を抱く方がいてもおかしくはない。
だが、同時に、羨ましくも思えるのではないだろうか。
誰に何を言われても、どれほど疎まれても恨まれても、ときには大事な家族に無理を強いてでも――けっして自分を偽らず、寝食を忘れて好きな植物に熱中する富太郎を、心のどこかで羨ましいと感じるのではないだろうか。
彼が指導する植物採集会に足を運び、ともに野山を駆けめぐり、見知らぬ草花の名を尋ねたくなるのではないだろうか。
植物を友として生きた日本植物学の父・牧野富太郎。
彼の生涯と生き様を知ったなら、昨日まで気にもしなかった野に咲く花や、風に揺れる名も知らぬ草木が、なにやら愛しくなるに違いない。そして、きっと富太郎のように、夢を追いかけたくなるだろう。
更新:12月10日 00:05