2023年01月31日 公開
戸次川古戦場(大分県大分市)
武勇に優れるだけでなく、親孝行で、家臣領民から慕われた──。かくも完全無欠のように語られる長宗我部信親は、戦国の世をいかに生き、なぜ、若くして戦場で散らねばならなかったのか……。敵味方問わずに死を惜しまれた悲運の英雄の真実とは。
赤神諒 小説家
昭和47年(1972)、京都市生まれ。同志社大学文学部卒。東京大学大学院法学政治学研究科修士課程修了。私立大学教員。平成29年(2017)、「義と愛と」で第9回日経小説大賞を受賞(『大友二階崩れ』と改題して上梓)。令和5年(2023年)、『はぐれ鴉』で第25回大藪春彦賞を受賞。著書に『計策師 甲駿相三国同盟異聞』『戦神』『妙麟』など、最新刊に長宗我部信親を主人公とした『友よ』がある。
※本稿は『歴史街道』2023年2月より、一部抜粋・編集したものです。
晩秋、大分市を流れる広い河川敷で、「大野川合戦まつり」が毎年開催される。
武者行列から和太鼓演奏、着陣・出陣式に騎馬疾走、鉄砲隊演武、音楽ライブ、演劇、花火打ち上げ、神楽・餅つき大会まで様々な趣向が凝らされる。盛り沢山で賑やかな2日間の祭りでは必ず、凜々しい甲冑姿の若者が、22歳で戦死した長宗我部信親を演じる。
大野川下流の旧名は、戸次川。戦国末期、天正14年12月12日(1587年1月20日)に「戸次川の戦い」が起こった激戦地である。
地元では長年にわたり、戦死した有名無名の将兵たちを供養してきた。中でも信親については、明治36年(1903)に森鴎外も叙事詩を著し、古戦場の界隈には400年の時を超え、信親の墓、終焉の地、荼毘塚、鎧塚などが整備され、現在では伝承と慰霊のための盛大なイベントも行なわれるようになった。
今なお惜しまれる夭折の将は、いかなる人物であったのか。信親を主人公に原稿700枚超の長編を書いてしまった小説家ならではの思い入れも交えつつ、ご紹介したい。
永禄8年(1565)、信親は「土佐の出来人」長宗我部元親の嫡男として生まれた。母は清和源氏の血を引く幕臣石谷氏の娘で、後に明智光秀の重臣となる石谷頼辰・斎藤利三兄弟の義妹でもあり、美女だったという。
信親の幼名は千雄丸、通称は弥三郎と言い、幼少年期は、元親が有能な家臣団と半農半兵の一領具足たちを率いて土佐統一へ向け昇竜のごとく駆け上がってゆく上り調子の時期で、恵まれた境遇であったろう。
元親は早くから、光秀を通じて、畿内で強大化する織田家との融和路線をとり、天正3年(1575)10月、弥三郎は信長の偏諱を得て「信親」と名乗った。父と家中の期待を一身に背負いながら養育された、押しも押されもせぬ御曹司である。
何と言っても有名なエピソードは、元親が施した徹底的な英才教育であろう。傅役は「福留の荒切り」こと、泣く子も黙る猛将福留親政。弓、鉄砲、馬、剣、槍、薙刀はもちろん太鼓に鼓、囲碁、和歌、謡、笛、蹴鞠に連歌、礼法などを、計20名の師が伝授したとされる。
六尺一寸 (約185センチメートル)の長身に育った信親は武勇に優れ、色白で柔和、礼儀正しく、上下ともに親しみ、民に優しかったという。
このような完全無欠の人物は小説の主人公として実に描きにくい。ゆえに拙著では、親孝行者で家臣領民に慕われる美点こそが、むしろ彼を不可避の死へと導いてゆく悲劇を描いた。
御曹司だけに、初陣の華々しい武勇譚でも残っていそうだが、意外にも信親の初陣がどの戦であったかは定かでない。
年齢的には天正3年の土佐統一後で、阿波・讃岐侵攻戦のいずれかと考えられる。もしかすると、数え15になる直前、長宗我部が慮外の苦戦を強いられ、甚大な死傷者を出した同6年(1578)12月の讃岐藤目城の戦いで初陣したものの、苦戦したため伝わっていない可能性もあろうか。
四国統一戦で、信親は元親に従い、阿波・讃岐を転戦した。敵は十河存保である。かつて畿内の過半を制した三好家も零落し、讃岐の名門十河家を継いだ存保が、兄三好長治の戦死後、家中から擁立されて当主となっていた。
長宗我部の猛攻に曝された十河は、羽柴秀吉を通じ、敵であった信長に服従して阿讃を守ろうとした。
天正8年(1580)石山本願寺との戦いを制した信長は、長宗我部との和親政策を180度転換し、土佐と阿波南部を除く四国の所領を返上するよう命じてきた。
だが、長宗我部は織田の家臣ではない。元親がこれを峻拒すると、信長は武田家を殲滅した後、三男信孝を総大将に任じて四国攻めを命じた。長宗我部に危機が迫る。だが、遠征軍が渡海する直前の天正10年(1582)6月、本能寺の変が起こる。
明智家との深い関係と、長宗我部がタイミングよく窮地を脱したことから、光秀は元親と示し合わせて謀反を起こしたとの見方もあるが、真偽のほどはわからない。
ともあれ、四国統一の好機到来と見た信親は、独断で手勢を引き連れて阿波へ出陣し、元親に出撃を促すなどしている。この年の8月、長宗我部は中富川の決戦で十河に大勝し、阿波を制した。
元親は四国平定を進めつつ、柴田勝家や滝川一益らと結んで、秀吉に対抗した。
天正11年(1583)4月、讃岐へ侵攻した長宗我部に対し、秀吉が十河に仙石秀久を総大将とする援軍を送ってくるが、引田の戦いで元親・信親父子は大勝し、これを退けた。
ところが、勝家が賤ケ岳で敗れたため、長宗我部は再び窮地に立たされる。元親は徳川家康と同盟を結んで秀吉に対抗しようとするが、家康も途中で秀吉に降った。
時期は定かでないが、このような激動のさなか、信親は母方の伯父にあたる石谷頼辰の娘を妻に娶っている。本能寺の変後、主君明智光秀が敗死すると、石谷は義妹の嫁いだ土佐を頼って落ち延びていた。
長宗我部の御曹司の正室としては、落魄の明智家遺臣よりも、他の大名家なりとの政略結婚のほうが望ましいはずで、小説家としては、この婚姻に悲運の従妹との恋物語でも絡んでいるのではと考えたくなる。
なお、斎藤利三の幼い娘福(後の春日局)も土佐へ逃れたとの伝承があり、従兄の信親に可愛がられていたかと思うと、何やら心が温まる。
天正13年(1585)春、伊予の河野家を降し、長宗我部は四国を統一するが、秀吉は紀州征伐も終え、すでに天下の大勢は定まっていた。
元親が重臣たちの反対を押し切って抗戦を選ぶと、秀吉は阿波、讃岐、伊予の三方面から総勢11万余の大軍を侵攻させてきた。
抵抗むなしく、圧倒的な兵力差の前に、長宗我部は敗北を重ねて秀吉に降伏し、土佐一国を安堵される。秀吉の四国攻めの間、信親は元親の命令で本拠の岡豊城にあり、最終決戦に備えていた。
更新:11月23日 00:05