2016年10月10日 公開
2023年03月09日 更新
小早川秀秋の寝返りを機に、形勢は一気に逆転。大谷吉継隊が壊滅、宇喜多秀家隊、小西行長隊も敗走、笹尾山で粘っていた石田三成もついに支えきれず、三成は伊吹山へと遁走します。慶長5年(1600)9月15日関ケ原、午後2時過ぎ頃のことでした。
もはや戦場で、西軍として隊伍を整えているのは島津義弘隊のみ。これを見た東軍諸隊が手柄稼ぎに島津隊に向かってきたところ、先陣の島津豊久の指揮で、敵を引き付けて鉄砲隊が銃撃しますが、すぐに敵味方が入り乱れ、それ以上の鉄砲の斉射はできなくなりました。
ある者は鉄砲をかつぎ、ある者は鉄砲を捨てて、乱戦の中に斬り込んでいきます。長野勘左衛門という者は、真っ先に敵中に突進し、敵の首級をとって「今日の太刀初め」と川上忠兄〈ただよし〉に見せると、再び斬り込んで討死しました。
島津隊の備えは、先鋒が島津豊久、先鋒右備〈みぎぞなえ〉が山田有栄〈ありなが〉、その後ろに島津義弘本陣がありました。しかし、この乱戦で、1500の島津隊は兵数が半減したといわれます。
「薩州勢五千召列候らはば、今日の合戦には勝つものを(薩摩勢が五千もいれば、今日の合戦には勝ったであろうに)」。義弘がそう二、三度、悔しげに口にしたと『薩藩旧記雑録』の「覚書」(筆者未詳)に記されています。
しかし、敵勢が続々と迫る今、このままでは島津隊が全滅するのは火をみるよりも明らかでした。義弘の視野の先には、前進してきた徳川家康本陣の旗印もあったことでしょう。
義弘は問います。「敵は何方〈いずかた〉が猛勢か」「東よりの敵、もってのほか猛勢」。即座に義弘は下知しました。「その猛勢の中に相掛けよ(その猛勢の中に突撃せよ)」
後退せず、全員死兵となって向かってくる敵勢の中に突進し、これを突き破れという「敵中突破」の決断でした。一見、無謀とも思えますが、敵の多くは逃走する敵の首を取ることに気をとられ、まさか自分たちに手向かってくるとは思わず、戦場心理に通じた義弘ならではの敵の意表を衝く一手であったかもしれません。
また、敵の弱い所ではなく「猛勢の中に相掛けよ」という命令に、薩摩人らしさを感じます。寡兵ながらも強敵にぶつかり、仮に全滅しても、勇敢な薩摩武士の誇りは保たれるでしょう。そしてもしこれを突き破ることができれば、島津の強さはいよいよ喧伝されるのです。「武士としての誉れになるか否か」が、彼らの行動基準の一つであったでしょう。
そしてもう一つ、義弘以外の家臣たちが念頭に置いていたのは、「何があっても殿さんだけは、薩摩に帰って頂く」ということです。大将さえ無事に脱出できるのであれば、島津の名誉は保たれ、たとえ自分たちが死んでも、義弘は必ず他日、それに報いてくれる。そんな強い信頼感が、義弘と、豊久を筆頭とする麾下の者たちとの間にありました。
島津隊は「鋒矢〈ほうし〉の陣」の陣形をとります。先手、第二陣の次に島津豊久、中陣、遊勢の次に長寿院盛淳、さらに旗本隊、島津義弘、後詰めという陣形でした。そして地を蹴り、咆哮を上げて、島津隊が疾走を始めます。
まず島津隊の前に現われたのは、福島正則隊でした。東軍一の勇将・正則は、島津隊の形相に只ならぬものを感じます。「こやつらは死を決しておる。下手に手を出し、怪我をしては割に合わぬ」。正則は無用の手出しはしませんでしたが、養子の正之が横槍を入れ、豊久に撃退されたともいいます。
島津隊の向かう先は陣馬野。金の七本骨の扇に日の丸の大馬印を掲げる徳川家康本陣でした。凄まじい勢いで向かってくる島津勢に、徳川本陣は驚くとともに、色めき立ちます。島津勢は徳川本陣に肉迫すると、それを掠めるように方向を南に転じました。息を呑んでいた家康は我に返ったように追撃を命じ、本多忠勝隊、井伊直政隊、松平忠吉隊が追います。
更新:11月10日 00:05