2023年01月31日 公開
天正14年(1586)8月、秀吉は信親と仙石秀久を大坂城に呼び出し、仙石を四国勢の軍監すなわち総大将として、島津相手に苦戦する大友家に加勢するよう九州渡海を命じた。仙石は讃岐の大名となり、十河は小領を与えられてこれに服属していた。
豊後(大分県)に渡った四国勢は、仙石と十河の讃岐勢3千、長宗我部の土佐勢3千の計6千。これに、兵数は不明ながら大友義統の軍勢が加わった。これに対し、島津軍は1万8千とも、2万5千とも伝わっている。
四国勢は先遣隊であり、秀吉は本軍が上陸するまで戦はせず、陣を固めるよう命じていた。しかし同年11月には、名将島津家久が戸次川東岸の鶴賀城攻めを開始し、豊後の国都府内に迫る。
運命の12月12日早暁、仙石は四国勢全軍を率いて府内を発し、戸次川を見下ろす鏡城跡で、元親・信親父子、十河、大友らと軍議を開いた。
十河については伝承が分かれるが、仙石による決戦の判断に対し、元親と信親は形勢の不利を説き、強く反対した。
しかるに、仙石は戦うと決めて渡河を命じた。その理由については長宗我部への遺恨など諸説言われ、小説家として一つの可能性を示したが、仙石もあえて敗北を選ぶ理由はないから、勝利できると考えたのであろう。
ともかく四国勢は、戸次川右岸の中津留河原で、右翼は桑名親光、信親、元親の土佐勢、左翼は十河、仙石、大友の三段構えで布陣した。
島津軍が仕掛けると、仙石勢はいわゆる「釣り野伏」、退却すると見せかけて伏兵で奇襲する策にかかって壊乱した。総大将の仙石が真っ先に戦場から逃げ出してしまい、圧倒的な兵力差で勝敗はすでに決していた。
だが、それでも戦いは続いた。信親は大薙刀を振るい、太刀を抜き、大軍を相手に激闘の末、700余名の土佐将兵と共に、死に花を咲かせたのである。
なぜ信親は、敗北必至の戦場に踏みとどまったのか。なぜ名のある将たちと一領具足が、まるで玉砕戦のごとき戦いを演じたのか。
戦場での降伏は、御曹司の意地と誇りが許さなかったろう。だが、信長の金ケ崎崩れを挙げるまでもなく、負けると見れば命を拾うのも名将の立派な選択である。
実際、元親も戸次川の戦場から離脱したが、信親は逃げられなかったのか。それとも、あえて死を選んだのか。
敵の大軍が次々と押し出してくる激烈な戦場で、刻一刻と変わる戦況をどの程度掴みえたかは不明だが、信親は元親たちが戦場を離脱する時を稼ぐために踏みとどまり、信親を慕う土佐将兵もこれに従ったのではないか。
父子いずれもが命を落とせば、2本の主柱を失った長宗我部は立ち行かなくなる。孝心に加え、信親はこれを恐れた。
さらに、逆算的な推量だが、信親は自らの戦死を以て秀吉に訴え、長宗我部を救おうとしたのではないか。実際、秀吉の命に反して戦い、敗れた仙石も十河も戦後改易されたが、秀吉は信親の戦死を称え、改易どころか、元親は固辞したものの大隅一国を与えようとさえした。
死地を逃れた元親は、信親の戦死を聞いて悲嘆に暮れ、遺骸の引き渡しを島津に申し入れた。若き敵将の壮烈な死に様に畏敬の念を抱いていた新納忠元は、涙を浮かべながら丁重に応じたという。
他方、仙石は踏みとどまった四国勢の奮戦に助けられ、ほうほうの体で豊前小倉城まで40里近くも北へ敗走した上、何と自領の淡路洲本までさっさと逃げ帰り、
〽仙石は 四国をさして逃げにけり
三国一の臆病の者
と、天下の嗤いものになった。後に元親と対面した秀吉は、信親を悼んで涙を流したと伝わる。
信親の死後、元親は人が変わったような暗君となり、長宗我部家には家臣の粛清など陰惨な運命が待っていた。信親が生きた短い生涯の間こそ、長宗我部が最も輝いた時期といえる。だから、歴史にIFは無意味だと承知していても、つい想像してしまうのだ。
もしも戸次川で信親が死ななければ、長宗我部の内紛もなく、五大老の一人くらいにはなっていたろうか。
信親の性格、秀吉との関係を考えれば、関ケ原で西軍として堂々と戦ったろう。徳川とは以前から誼みがあったし、仮に負けても簡単には滅ぼされなかったろうか。
幕末まで長宗我部が続いたなら、明智の末裔とされる坂本龍馬が幹部として土佐藩を率いていたかも知れない……などと。調子に乗って仮定を重ねるうち、紙幅も尽きた。
祭りの時こそ大勢の人で賑わうが、ふだんの戸次川古戦場は穏やかで、川の水も澄んでいる。ぜひ訪れて、異郷で散った悲運の英雄に思いを馳せていただきたい。
更新:11月23日 00:05