歴史街道 » 本誌関連記事 » 小牧・長久手の戦いは“徳川家康の勝利”と言い切れない理由

小牧・長久手の戦いは“徳川家康の勝利”と言い切れない理由

河合敦(歴史研究家/多摩大学客員教授)

 

織田信雄、秀吉に降伏

長久手の戦い後は、羽柴方が織田方の加賀野井城を陥落させたり、織田・徳川方が滝川一益に奪われた蟹江城を降伏させたり、一進一退の攻防が続くが、兵力の差もあって、羽柴方が次第に優勢になっていく。

9月初旬には和睦の動きも出たが、それが決裂すると、秀吉は信雄の本拠地である伊勢国へ攻勢をかけ、南伊勢への侵略を猛烈に進めていった。戦い全体を概観しても、もはや羽柴軍の優位は動かしがたい状況になった。

10月には、羽柴方の蒲生氏郷によって、織田方の戸木城が落とされてしまった。城主の木造具政は、半年間も城を守り通してきたが、ついに力尽きたのである。

さらに秀吉は、北伊勢地方も窺いはじめた。同時に、信雄の居城である長島城を攻撃するそぶりを見せたのだ。この時期、信雄の重臣で猛将として知られた滝川雄利も浜田城を羽柴軍に取り囲まれ、動きがとれなかった。かつ、織田方の桑名城も羽柴の大軍に包囲されていた。こうしたなか、織田領の尾張国北部と西部も羽柴方の勢力下に入ってしまう。

このため戸木城が落ちた頃から信雄はみるみる戦意を喪失していき、とうとう秀吉に講和を申し入れ、11月に合意に達すると、信雄は自ら少数の供を連れて秀吉のもとへ赴いた。そして矢田川原において両者の会見が実現し、正式に講和が成立したのである。

なお、講和といっても、信雄は人質を秀吉に差し出しているので、事実上の降伏であり、領地も伊賀国と南伊勢を削られ、信雄の所領は尾張一国と北伊勢五郡だけになってしまった。

こうして信雄が秀吉と単独講和してしまうと、戦う名分を失った家康も、仕方なく兵を引くことになった。

秀吉の書状を見ると、家康は石川数正や水野忠重を送り、秀吉に対して和睦を願ったとある。これが事実かどうかは不明だが、三河国内では飢饉が起こっており、家康としても勝ち目の薄い戦いに、これ以上足を取られているのはまずいと考えたのだろう。

12月12日、家康は秀吉の求めに従い、次男の義伊(のちの結城秀康)を秀吉の養子として送った。実質上の人質といってよいだろう。このおり、石川数正の子・勝千代と本多重次の子・仙千代も義伊に従い、大坂に赴いた。

こうして小牧・長久手の戦いは、織田・徳川の敗退という結果に終わったのである。

 

歴史街道 購入

2024年12月号

歴史街道 2024年12月号

発売日:2024年11月06日
価格(税込):840円

関連記事

編集部のおすすめ

信長6万の軍勢をも退けた雑賀孫一と鉄砲衆...秀吉・家康も恐れた「雑賀衆」の強さとは?

江宮隆之(作家)

家康の次男・結城秀康~「ギギ」と呼ばれた幼少期、不遇を乗り越え期待に応えたの男の生涯

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

“スギ”のお陰で命拾い? 徳川家康ゆかりの地・岡崎で辿る「天下統一までの道のり」

歴史街道編集部