歴史街道 » 本誌関連記事 » 太閤検地と刀狩~その時、時代は変わらなかった!?

太閤検地と刀狩~その時、時代は変わらなかった!?

2019年03月25日 公開

渡邊大門(歴史学者)

刀狩、本当の目的とは?

では、刀狩については、どうなのだろうか。以下、述べることにしよう。

刀狩については、太閤検地以上にわからないことが多い。刀狩令の原本は13通が伝わっているが、主に九州方面に残っているものが多い。

それは、天正15年(1587)における、秀吉の九州征伐に伴うもので、国衆や農民の一揆を鎮めるためだったという説もある。つまり、最初は九州限定で発布されたが、徐々に全国的な法令になったという理解である。

ところで、刀狩には、多くの例外事項があったという。町人には、帯刀を許可していた。また、寺社などでは、神事のときに使用する場合は、武器を所持することが許された。それは、祭器としてであった。

以上は、農民身分以外の者が対象であるが、農民の場合であっても、害獣(鹿、猪)駆除のためならば、武器を持つことを許されたのである。

実際のところ、刀狩そのものは不徹底なものだった、と指摘されている。

大名が村々に代官を派遣して、徹底的に調査したうえで、武器を取り上げることは不可能だった。それは、太閤検地の実施と同じ理屈である。そのような事情から、村の代表者に依頼し、適当に済ませることもあった。

加賀・前田家の場合は、村の代表者が誓紙(誓約書)を提出し、辻褄合わせだけをしたといわれている。つまり、農民の全面的な武装解除とは、程遠い現状があったといえるのである。

実際の刀狩の目的は、農民の武装解除ではなく、身分標識(帯刀できるのは武士身分だけ)を明確にする点にあったという指摘がある。

中世社会は危険な社会であり、容易に武器を手放せなかった。村では縄張り争いがあったり、戦乱に巻き込まれることがあった。また、日頃の治安維持や害獣の駆除にも武器が必要で、自分たちの身は自分たちで守らねばならなかった。

自力救済という社会のなかで、刀などの武器は農民に必要不可欠だったのである。

したがって、江戸時代以降も農民は武器を所持し続け、領主の数倍もの鉄砲を保持していたとの指摘がある。
 

兵農分離は実現しなかった!?

太閤検地と刀狩図解以上のように、太閤検地や刀狩だけでは、即座に兵農分離は実現しなかった。

余談ながら、織田信長が戦に強かったのは、領国内で兵農分離を実現し、農閑期以外も戦えたためといわれている。

ところが、それは必ずしも明確に実証されたわけではなく、断片的な史料で指摘されているに過ぎない。やはり、先進的とみられる織田軍団でさえも、兵農未分離と考えるのが自然である。

最後に城下町について触れておこう。城下町が形成されると、城下には武士が集住し、町人の居住地が定められたり、寺社も1カ所に集められたりした。百姓は、村落で農耕に専念していたのである。それは、兵農分離の典型的なパターンとされてきた。

しかし、ここまで見たとおり、兵農分離を伴う城下町の形成は、決して円滑に進んだわけではない。

武士は土地とのつながりが強く、城下に集住させるのには困難が伴った。現実には、武士が相変わらず村落に居住し、農業にも従事していた例が多かったといえる。

したがって、典型的な城下町のプランがあっても、実現は容易でなかったのである。

本稿は、即座に兵農分離が実現しなかったからといって、秀吉の行なった諸政策を否定するものではない。

現実社会との葛藤のなかで、諸政策が実現するのには長い時間を要した。そうした点を考慮しても、秀吉の政策が幕藩体制に通じる先駆的な取り組みだったことは、間違いないといえよう。

※本記事は歴史街道2019年3月号掲載記事より転載したものです。

歴史街道 購入

2024年12月号

歴史街道 2024年12月号

発売日:2024年11月06日
価格(税込):840円

関連記事

編集部のおすすめ

家康も望まなかった「大坂冬の陣」、勃発の真相を探る

渡邊大門(歴史学者)

「新戦法対旧戦法」ではない! 長篠合戦の知られざる構図

平山優(日本中世史研究家/大河ドラマ『真田丸』時代考証)

最新研究に見る「真実の」織田信長

小和田哲男(静岡大学名誉教授),『歴史街道』編集部