2019年03月25日 公開
そもそも太閤検地の原形は、秀吉が織田信長から北近江の支配を任された際、同地において実施した検地にあると言われている。信長の没後、秀吉が後継者として天下人になったあとは、その原則が全国で適用されたのである。
秀吉の行なった太閤検地は、おおむね3つに分類されている。
1つ目は、秀吉の蔵入地(直轄領)などに検地奉行を派遣して、検地を行なったパターンである。
2つ目は、秀吉から所領を与えられた大名が、豊臣政権から派遣された検地奉行によって、検地を行なったパターンである。以上の2つは、純粋な意味での太閤検地といえる。
3つ目のパターンは、徳川氏、前田氏、毛利氏など、秀吉の配下に加わった大名が、独自に領内で行なった検地のパターンである。こちらは純粋な意味での太閤検地ではなく、各大名の独自性が強いといえる。
問題なのは、それぞれのパターンの検地は、先に示した太閤検地の原則に必ずしも則っていないことである。
天正17年(1589)の美濃の検地では、「検地条目」の基本原則を守るように指示されたが、検地奉行の裁量によって変更された点もあった。
文禄3〜4年(1594〜95)の薩摩・大隅における島津氏の領内での検地では、家臣の所領を減らして島津氏の直轄領に編入するという、名目だけの計算すらなされた。これにより、年貢の増収を図ったのである。
天正18年(1590)に仙石秀久が信濃小諸で行なった検地では、太閤検地の原則が適用されず、村から貫高(土地面積・地代を銭で換算した方式)で提出された年貢高を、石高に換算していた。
翌天正19年(1591)に甲斐で加藤光泰が検地を行なったが、こちらは1反=360歩という、古い単位で土地面積を測っていた。
中国方面を支配した毛利氏も、1反=360歩を採用していた。田は石高、畑は貫高で年貢高が把握されるなど、旧態依然とした検地だったといえる。
そこにおいて毛利氏は、米1石=銭1貫文で換算していたのである。天正、文禄と独自に検地を行なった毛利氏でさえも、こういう体たらくだった。
信濃、上野の一部を支配していた真田昌幸は、蒔高を1つの基準としていた。
蒔高とは、もち米や麦をどれだけ蒔けたのかを面積で表示した単位で、それによって田畠の面積をあらわした。さらに、それらに上中下の等級を付けたうえで、貫高で年貢の賦課基準を導く方法によって、検地を行なったのである。
実際、検地奉行が役人を引き連れて、土地を測量する検地(丈量検地)は手間がかかりすぎるため、実際は村から帳面を提出される指出検地が主流だった。また、各大名領国にはそれぞれ慣行があり、太閤検地の原則を徹底するのは、極めて困難だったのである。
そのような状況なので、太閤検地の実施とともに、即座に兵農分離が促進したとは考え難い。現実には、武士身分の者が村落に居残って耕作を続けるなど、兵農未分離の状態が長らく続いたと考えられるのである。
更新:11月22日 00:05