2018年03月01日 公開
2024年05月13日 更新
大和郡山市
豊臣秀長は和泉・紀伊・大和100万石を領有。郡山城主として城下の建設を行った。
天文9年3月2日(1540年4月8日)、豊臣秀長(羽柴小一郎)が生まれました。豊臣秀吉の3歳下の異父弟(一説に同父弟)で、秀吉の補佐役として活躍したことで知られます。
秀長が兄の秀吉に仕え始めたのは、織田信長家臣の秀吉がおねと結婚した後のこととされ、秀長25歳の頃でした。天正元年(1573)、秀吉が長浜城主となると秀長が城代を務めることもあり、内政手腕を秀吉も認めていたことが窺えます。
その後、秀吉が信長より中国攻めを命じられると、秀長は但馬国及び山陰道の鎮定を任され、但馬竹田城が落ちると城代となりました。さらに播磨の三木城攻めでは一方の将として戦局を変える働きをし、武将としての有能ぶりを示して、秀吉にとってなくてはならない存在になっていきます。
天正8年(1580)、秀長は41歳で但馬出石城主となりました。 天正10年(1582)、本能寺の変直後の中国大返し、山崎の合戦、さらに賤ヶ岳の合戦にもすべて参加、小牧・長久手の合戦では敵の織田信雄の動きに備えています。また、秀吉が後継者に考えていた甥の秀次の合戦での失態をかばい、秀吉にとりなす努力もしています。
天正13年(1585)の四国攻めでは、秀吉に代わって総大将を務めて見事に攻略。その功績で紀伊・大和・河内を任され、大和郡山に居城を構えます。秀長に対する秀吉の信頼は篤く、大友宗麟に「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」と伝えています。
そして天正15年(1587)の九州攻めでは日向方面軍の総大将となり、黒田孝高らとともに島津軍の奇襲を撃退、島津家久の講和交渉を引き出しました。この功績で秀長は従二位権大納言に叙任され、大和大納言と呼ばれることになります。
しかしその後、病が重くなり、小田原征伐には出陣することができず、天正19年(1591)、秀吉に先立って大和郡山城で病没しました。享年52。
秀長は能弁な秀吉とは対照的に、人柄の誠実さが表に出るタイプで、小早川隆景や徳川家康も秀長とは非常に親しかったといいます。また、ともに戦陣を重ねた竹中半兵衛や黒田孝高ともうまく折り合い、さらに甥の秀次にとっては、失敗をいつもかばい、後押ししてくれる叔父でした。もし秀長がもう少し長命であれば、秀次家族の悲劇は起こらなかったでしょうし、豊臣政権の寿命を縮めた朝鮮出兵も別のかたちになっていたかもしれません。
更新:11月24日 00:05