2017年09月05日 公開
2018年08月28日 更新
寛永元年9月6日(1624年10月17日)、豊臣秀吉の正室おね(北政所、高台院)が没しました。秀吉の糟糠の妻で、天下人となる夫を支え続けるとともに、加藤清正や福島正則などの子飼いの武将を母代わりで育てたことで知られます。
おねは天文16年(1547)頃、織田家の家臣・杉原助左衛門定利の次女に生まれました。その後、浅野長勝の養女となります。永禄4年(1561)、周囲の反対を押し切って、信長の家臣・木下藤吉郎秀吉と恋愛結婚。一説に当時14歳だったといい、祝言は浅野家で簀子の上に藁をのべ、さらにその上に薄縁を布いて行なったといいます。
秀吉は合戦で家をあけることが多かったですが、おねは岐阜でも長浜でも夫の留守を預かり、長浜城では城主代行のような立場でした。また子宝には恵まれませんでしたが、秀吉の親戚にあたる加藤虎之助(清正)や福島市松(正則)らを我が子のようにして育てています。姑のなか(秀吉の母)とも同居し、実の母娘のように仲が良く、聡明で明るく、人あたりのよいおねの人柄が想像できます。
本能寺の変後、明智を破った秀吉が天下人の座に駆け上り、天正13年(1585)に関白に就任すると、おねも従三位に叙せられ、大坂城で北政所と称されることになりました。しかし諸事格式ばらず、秀吉と会話する時は尾張弁丸出しで、方言を知らない者が聞いたら夫婦喧嘩をしているのかと思うほど、勢いよくしゃべっていたといいます。
天正16年(1588)に後陽成天皇の聚楽第行幸がつつがなく終わると、諸事を怠りなく取仕切った功績により、おねは破格の従一位に叙せられました。秀吉の出世に伴走したおねですが、その激しい環境の変化に順応し、常に奥向きを取仕切ることができたのは、やはり並々ならぬ才覚の持ち主であったと思わずにはおれません。関白秀吉もおねにだけは頭が上がらず、戦地からも頻繁に手紙を書いて、体調を気遣い、機嫌を取りました。
慶長3年(1598)に夫・秀吉が没すると、秀吉の側室・淀殿と連繋して豊臣秀頼の後見にあたりました。かつては正室・北政所と側室・淀殿の確執が、徳川家康の天下取りに利用されたという解釈が多かったですが、最近ではおねは淀殿との仲は悪くなく、関ケ原の合戦でも大津城開城に動くなど、従来いわれていた東軍寄りではなく、むしろ西軍寄りの動きをしていたことが指摘されています。
慶長8年(1603)、秀頼と家康の孫娘・千姫の婚儀を見届けて落飾、高台院湖月尼と称しました。そして2年後に京都東山に高台寺を建立して、ここを終の棲家とします。
慶長19年(1614)に大坂の陣が始まると、自ら調停を行なおうとしますが、家康によってその動きは制限され、図らずも豊臣家の滅亡を目にすることになりました。寛永元年に他界。享年76とも77とも。
「天下は持ち回り、豊臣家は秀吉と自分夫婦の一代で仕舞い」と割り切っていたと描かれることの多いおねですが、もし淀殿と仲は悪くなく、秀頼の成長を心待ちにしていたとしたら、大坂の陣の悲報はどのように受け止めていたのでしょうか。賢婦人の内面の孤独と哀しみは、想像するほかはありません。
更新:11月24日 00:05