歴史街道 » 本誌関連記事 » 則天武后に評価された粟田真人、人々に憎まれた玄昉...海を渡り中国に学んだ日本人(後編)

則天武后に評価された粟田真人、人々に憎まれた玄昉...海を渡り中国に学んだ日本人(後編)

2025年04月29日 公開

鷹橋忍(作家)

遣唐使船復元された遣唐使船

航海すること自体が命懸けだった古代において、海を渡って中国に向かい、国づくりに尽力した人々がいた。国書を紛失した者、大化の改新に貢献した者、異国の土となった者......。ここでは前後編に分け、七人の男たちを取り上げ、果たした役割とその足跡をたどる。

 

粟田真人(あわたのまひと)――則天武后から高く評価

粟田真人は、白雉4年(653)の第2回遣唐使において、「道観(どうかん)」という学問僧として随行し、唐で学んでいる。

帰国後、真人はその卓越した才をかわれて還俗し、官人としての道を歩みはじめた。持統天皇3年(689)には、筑紫大宰(つくしのおおみこともち)であったことが、『日本書紀』に記されている。藤原不比等らとともに、大宝律令の制定に尽力したことでも知られている。

大宝2年(702)の第7回遣唐使において、真人は使節団の最高責任者である執節使(しっせつし)を務めた。執節使は仏教の知識をもち、唐での留学経験もある真人に適任であった。

なお、このときは厳密にいうと、遣唐使ではない。当時、中国の王朝名は唐から周へと代わっており、周の皇帝は中国史上、唯一の女性皇帝である則天武后だった。

真人はその則天武后から、高く評価されたようである。『旧唐書(くとうじょ)』には、真人が朝廷を訪れ、日本国の産品を献上したことが記されているが、それに加え、「真人は好んで経史(けいし)を読み、上手に文章をつくり、その立ち振る舞いは温雅であった」と讃えられている。そして、則天武后は真人を麟徳殿(りんとくでん)に招いて宴を開き、司膳卿(しぜんけい)の官を授けて、日本に帰国させたという。

真人らは出発から2年後の、慶雲元年(704)に帰国した。その功績により、真人は大和国(奈良県)に田二十町、穀千石を与えられた。

その後も中納言、大宰帥(だざいのそち)、参議を歴任し、正三位に叙され、養老3年(719)2月5日に薨じた。

 

玄昉(げんぼう)――日本の仏教発展に貢献するも...

玄昉は、大和国(奈良県)の阿刀(あと)氏の一族の生まれとされる。出家して、法相宗の高僧である義淵(ぎえん)の弟子となった。

養老元年(717)の第8回遣唐使に留学僧として随行し、吉備真備や阿倍仲麻呂らとともに、唐に渡っている。

唐では、中国法相宗第三祖の智周(ちしゅう)に師事した。『続日本紀』によれば、時の皇帝・玄宗から尊ばれ、三品(さんぽん)の位に准じられ、紫衣(しえ)を賜っている。

18年の長きにわたって在唐し、天平7年(735)に、吉備真備とともに帰国した。

帰国にあたり、玄昉は5000余巻の経論と諸々の仏像を将来している。この膨大な経論と玄昉が唐で身に付けた学識は、日本の仏教の発展に大きく貢献した。

帰国後、玄昉は天平9年(737)8月に僧綱(そうごう)の最高位である「僧正(そうじょう)」に任じられている。同年12月には聖武天皇の母・藤原宮子の病を治し、天皇の寵愛を受けた。

政権にも参画し、吉備真備とともに権力を掌握すると、人々に憎まれたという。天平12年(740)には、藤原広嗣(ひろつぐ)が玄昉と吉備真備の排除を要求し、九州で反乱を起こした。「藤原広嗣の乱」である。

反乱は鎮圧され、藤原広嗣は敗死した。だが、政局の変化により玄昉も天平17年(745)11月に筑紫の観世音寺に左遷され、翌天平18年(746)6月18日、同地で死去した。『続日本紀』には玄昉に関して、「次第に僧侶としての行ないに背くことが多くなり、人々はこれを憎んだ。世の人は、玄昉は藤原広嗣の霊によって、左遷の地で殺されたのだと伝えている」とある。

このように評判はあまり芳しくないが、前述のように、日本の仏教の発展に大変に寄与したことは確かだ。

 

井真成(いのまなり)――墓誌の発見で存在が明らかに!

最後に、墓誌の発見により、はじめて存在が明らかになった日本人留学生「井真成」をご紹介したい。中国における墓誌とは、亡くなった人の経歴などを刻んだ石で、死者とともに墓に埋納される。

平成16年(2004)、中国・西安の西北大学が、井真成の墓誌を発見したことを発表し、話題を呼んだ。

墓誌の記述によれば、井真成は生まれながらに才能に恵まれ、命を受けて中国に派遣された。勉学に打ち込んでいたが、天平6年(734)正月、官舎にて、36歳で急逝してしまう。

時の皇帝・玄宗は井真成の死を悼み、尚衣奉御(しょういほうぎょ。従五品上に相当)の官位を追贈した。同年2月には、葬儀を公費で執り行なわせたという(東野治之『遣唐使』)。

井真成は養老元年(717)の第8回遣唐使とともに、19歳で唐に渡ったと推定されている。第8回遣唐使には玄昉や吉備真備や阿倍仲麻呂も随行しており、井真成もきっと彼らと同様に秀でた才をもち、将来を期待された若者だったのだろう。

墓誌は「形は既に異土に於(お)いて埋もれ、魂は故郷に帰らんことを乞い庶(ねが)う(身体はすでに異国に埋められたが、魂は故郷に帰ることを願う)」という文言で結ばれている。

井真成の故郷は、確定に至っていない。だが、候補地とされる大阪府藤井寺市では、「墓誌と一緒に井真成の魂を、故郷とされる藤井寺に返してあげたい」という思いが市民の間に広がり、平成17年(2005)に「墓誌の里帰り」が実現。墓誌里帰りパレードなど、盛大なイベントが催された。

墓誌は中国へ戻されたが、その後、中国からレプリカが贈呈され、現在も藤井寺市立生涯学習センター(アイセルシュラホール)で常設展示されている。

井真成の魂は1300年の時を超え、願いどおり故郷に帰れたと信じたい。

 

【鷹橋忍(たかはし・しのぶ)】
作家。昭和41年(1966)、神奈川県生まれ。洋の東西を問わず、古代史・中世史の文献について研究している。著書に『城の戦国史』『牧野富太郎・植物を友として生きる』などがある。

 

歴史街道の詳細情報

関連記事

編集部のおすすめ

蘇我入鹿が暗殺されたほんとうの理由~「日本書紀」に隠された中大兄皇子の謀略

山本博文(東京大史料編纂所教授)

ヤマト建国の鍵は「尾張」だった? 『日本書紀』が隠蔽した意外な真実

関裕二(歴史作家)

第45代・聖武天皇への皇位継承~藤原四兄弟と長屋王の変

吉重丈夫