歴史街道 » 本誌関連記事 » 町中に悪臭が漂い、死体が道端にゴロゴロ...本郷和人が明かす「庶民から見た平安京」の現実

町中に悪臭が漂い、死体が道端にゴロゴロ...本郷和人が明かす「庶民から見た平安京」の現実

本郷和人(歴史学者)

「九相図」の一場面(出典:ColBase)「九相図」の一場面(出典:ColBase)

貴族文化の優雅なイメージの強い平安京。しかしその華やかさの裏側に、現代人には想像を絶する「凄惨で過酷な現実」がありました。芥川龍之介の『羅生門』が描いたような死体放置の事実、そして発掘調査から判明した驚きの衛生事情など、1000年前の京の都の実像に迫ります。

※本稿は、本郷和人著『こわい日本史』(扶桑社)より一部抜粋・編集したものです。

 

平安京のリアルは『羅生門』にあり

『源氏物語』の世界のような、雅で優雅な貴族文化――「平安時代=華やかな時代」という印象を持つ人は多いと思います。ただし、そうしたイメージは、あくまで貴族社会の話に過ぎないのだということを、みなさんはご存じでしょうか。平安時代の日本列島の人口は、およそ1,100万人ほどだったと考えられています。そのうち、貴族そのものはせいぜい500人ほど。その家族を含めても3,000人程度です。

では、文学で描かれた都の様子が一部の貴族のものだったとしたならば、庶民にとっての平安の都とはどんなものだったのか。

それを考えるヒントになるのが、芥川龍之介の小説『羅生門』です。この作品は、平安時代の説話集『今昔物語』を下敷きにして書かれたもの。つまり完全な創作というより、当時の伝承や記録をもとにして描かれているわけです。だからこそ、それなりのリアリティがあると言えるでしょう。

物語の舞台は京都にある羅生門。この門は大きな二階建てになっており、雨風をしのぐことができる場所でした。ある男が雨宿りのためにその二階へ上がっていくと、そこには信じられない光景が広がっていました。なんと、飢えや病で亡くなった人々の死体が、ゴロゴロと放り出されているのです。

そこへ現れたのが一人の老婆。彼女は死体に近づき、亡くなった女性の髪の毛をむしり取っています。なぜ老婆がそんなことをしていたのかといえば、かつらをつくるため。当時の女性にとって、長い髪は大きな自慢でした。だから、長い髪を集めて、かつらの材料として売ると、そこそこのお金が手に入った。生き延びるために死体から髪を抜くあさましい老婆の姿を見て、男はゾッとし、彼女を蹴り倒してしまう、というのが『羅生門』の有名な一場面です。

この作品が私たちに教えてくれるのは、平安時代は日本で一番華やかであるはずの都・平安京ですら、死体が放置されるような状況があったという事実です。もし都でそうなら、地方ではどうだったのか。文献にはありませんが、道端に死体がゴロゴロ捨てられていたとしても、決しておかしくはありません。

 

平安時代の人々は、腐った遺体も見慣れていた?

では、平安時代は、なぜそんなに死体がゴロゴロと放置されていたのでしょうか?まず、そもそもの理由は、現代に比べれば早死にする人が多かったからです。十分な医療がない当時、平均寿命は現代ほど高くありません。だいたい30歳から40歳ほどで亡くなる人が多かったと考えられています。

さらに死因として多かったのが、飢えと病気、そして戦争です。平安時代の前半から中期は非常に平和な時代だったので、戦争で亡くなる人は少なかったでしょうが、飢えや病気で亡くなる人が多かった。食べるものが不足していれば体力は落ちます。抵抗力が弱ったところに病気が重なれば、あっという間に命を落としてしまう。

ここで問題になるのが、遺体をどうするのかという問題です。現代の日本では火葬が一般的です。高温で焼いて骨にするのは、衛生的にも非常に合理的です。ところが、古代はそうではありません。きちんとした墓を作って埋葬する例はむしろ少なく、基本的には遺体を捨てるという形が取られていました。

とはいえ、無秩序に遺体を捨てていたわけではありません。都のはずれなどの場所に「だいたいこの辺りに遺体を置いておけばいい」という場所が自然に決まっていたようです。この場所を「葬地(そうち)」と呼びました。法律などで厳密に場所が決められていたわけではありませんが、人々が遺体を運ぶうちに「あの辺は死んだ人を捨てる場所だ」という共通認識が生まれていった。こうして亡くなった人は葬地へと運ばれ、「死体の集まる場所」ができていったのです。しかし、すべての遺体が葬地に置かれていたわけではありません。平安京という都の中には、家を持たない人々も少なくありませんでした。いまで言えばホームレスのような存在です。そうした人が道端で亡くなれば、遺体が放置されることもあった。そのため、人々が遺体を観察する機会は多かったようです。

少し先の時代ではありますが、鎌倉時代以降の絵画のジャンルに「九相図(くそうず)」というものがあります。これは、九つの段階に分けて、死体が腐敗していく過程を描いた絵です。まず体内にガスがたまり、膨張し、やがて破裂する。腐敗が進み、皮膚が崩れ、犬や鳥が肉をついばむ。最後には白骨になる。かなり凄惨な描写ですが、これが非常にリアルに描かれている。ということは、絵を描いた人は実際にそういう光景を見ていた可能性が高い。

鎌倉時代ですらそうなのですから、もっと社会制度が安定していない平安時代には、道端の死体が腐敗し、動物に食べられ、やがて骨になっていく過程は、ごくごく当たり前のものだったのではないでしょうか。

 

京都はかなりクサかった

道端に遺体を捨てていたことを考えても、日本人の中には、昔から「死体は魂が抜けた抜け殻」という意識があったようです。問題は魂の行き先であって、体そのものではない。魂が抜けてしまえば、体はもうただの物体にすぎない。少し乱暴な言い方をすれば、「遺体はゴミのようなもの」という感覚さえあった。

天皇や貴族といった裕福な人や身分の高い人は丁重に葬られました。しかし、お金のない人々にとっては、葬儀に大きな費用をかける余裕などありません。親の遺体であっても、どこかに捨てに行くことも珍しくなかったのです。

死体がゴロゴロと転がっていたことを考えると、平安時代の京都はかなり「臭い」社会だったのではないかと推測されます。遺体が腐れば、その臭いが広がる。現代で、私たちは「死臭」をほとんど経験しません。遺体はすぐに火葬されてきれいに管理されるので、腐敗の臭いを嗅ぐ機会がない。ですが、昔はそうではありません。遺体がそのまま放置され、処理が遅れることもある。そうすると当然、腐敗臭が出る。これは想像以上に強烈な臭いだと言われています。

平安京のような人口が密集した都市では、当然死人も多いので、腐敗臭が漂う場面も少なくなかったでしょう。死の臭いが、日常の中に普通に混ざっていたはずです。さらに問題なのが、もっと身近な臭いです。そう、排泄物です。人間は生きている限り、必ず排泄をします。ところが平安時代には、もちろん水洗トイレなどありません。しかも紙も貴重品です。現代のようにトイレットペーパーで拭くわけにもいかない。では、何で拭いていたのかというと、これがまた驚きます。なんと「籌木(ちゅうぎ)」と呼ばれる木の棒で拭いていたのです。正直、どう考えてもあまりきれいになりません。想像するに、お尻には取り切れなかったウンコが付着するような、かなり厳しい衛生環境だったはず。

しかし、日本の歴史では木の棒でお尻を拭くのは意外と当たり前だったようです。事実、平安末期の遺跡である岩手県平泉の柳之御所遺跡などでは、アイスの棒のような木の棒が大量に出てきています。最初は「これは何だろう?」と研究者も首をかしげたそうですが、結論はお尻を拭く棒だったのです。

なお、お尻を棒で拭くのは意外とよくある文化のようで、古代中国でも棒でお尻を拭く文化があった。たとえば、禅宗の罵り言葉にある「乾屎橛(かんしけつ)」。直訳すると「乾いたクソのついたケツ」であり、「取るに足らないもの」という意味。ずいぶん強烈な言葉ですが、こういう言葉が成立するくらい、当時の人々にとって棒でお尻を拭くのは当たり前のことだったのでしょう。

プロフィール

本郷和人(ほんごう・かずと)

歴史学者

1960年、東京都生まれ。東京大学史料編纂所教授を経て、藤田医科大学特命教授・リベラルアーツセンター長。専門は、日本中世政治史、古文書学。

歴史街道の詳細情報

関連記事

編集部のおすすめ

大河ドラマでは描かれない「平安時代のトイレ事情」

朧谷寿(歴史学者)

鎌倉幕府は、なぜ滅亡したのか?~歴史における「引き金」を引いた後醍醐天皇

山本博文(東京大史料編纂所教授)

頼朝・義経だけじゃない! 知られざる「源兄弟」たちのその後

中丸満 (歴史ライター)

名前は超有名だけど...小倉百人一首の「蝉丸」っていったい何者?

鷹橋忍(作家)

池禅尼、八重姫、亀前…鎌倉殿を助け、魅了し、時に悩ませた人々

中丸満(歴史ライター)