
竹中氏陣屋
一代で天下人に登りつめた豊臣秀吉。代々仕える家臣がいない「成り上がり」の彼が、なぜ竹中半兵衛や黒田官兵衛、加藤清正ら多才な家臣を束ね、最強の軍団を築くことができたのでしょうか。実力重視の登用、家族のような信頼関係を築いた「子飼い」の武将たち。秀吉流の人材マネジメントを『豊臣兄弟!』の時代考証を担当する柴裕之氏が紐解きます。
*本稿は柴裕之監修『7つのキーワードでまるわかり コミュ力お化け 豊臣秀吉』(主婦と生活社)より一部抜粋・編集したものです。
一代で天下人に登りつめた豊臣秀吉は、実力重視でゼロからスター家臣団をつくりあげた。
その屋台骨は弟の秀長で、草創期は蜂須賀正勝や子飼い武将の加藤清正、福島正則など、尾張出身の面々が支えた。長浜時代には近江の石田三成や片桐且元など官僚肌の武将にも出会い、中国攻めで軍師となる黒田孝高(官兵衛)も加入。政権初期から千利休も内政を支えたが、晩年の武断派・文治派の対立が関ヶ原の戦いの遠因となった。
竹中重治(半兵衛)と黒田孝高(官兵衛)。"両兵衛"と呼ばれた秀吉の軍師だ。軍師の役目は合戦の戦術を考えることだが、秀吉が重視したのは、交渉で味方を増やす「調略」の才だった。
竹中重治はわずか17名で主君の稲葉山城(岐阜城)を乗っ取った知将だ。通説ではその後、山奥に隠棲した重治のもとを秀吉が訪れて家臣にするが、実際は信長の美濃平定後に織田家臣となったようだ。近江国境に近い菩提山城を領有するため浅井家との人脈を持つ上、知略に優れる重治は浅井家臣の調略にうってつけの人材だった。
黒田孝高は播磨の国衆で、播磨攻めを命じられた秀吉が姫路城を任されていた孝高を引き入れた。そして孝高は主君の小寺家をはじめ、播磨衆を調略していったのだ。有岡城主・荒木村重が離反した際は、孝高が交渉に向かうが村重に幽閉されてしまう。重治は三木城攻めの最中に病死するが、その後は孝高が秀吉のそばで天下取りに奔走した。
備中高松城攻めの陣中。信長の死に呆然とする秀吉に、孝高は「殿、ご運が開けましたな」と言葉をかけたという。我に返った秀吉は情報分析し、その夜から中国大返しに向けて動いた。この一言は大きかった。
合理主義者・信長の配下で調略の才によって出世した秀吉が、自身の軍師に求めたのも、同種の才能だった。
「子飼いの武将」とは、大将が子ども時代から育てた武将のことである。家族のような信頼関係が築かれ、忠誠心の強い家臣が育つ。一代で天下人になった秀吉には代々仕える家臣がおらず、親類も少なかった。家臣団の中で最も信頼のおける「一門衆」を組織するには、子飼いの武将が必要だったのだ。
秀吉子飼いで最もよく知られるのは、福島正則と加藤清正である。正則は、母が秀吉父方の妹で、秀吉とは従兄弟。清正の母は大政所の従姉妹とされ、2人とも秀吉の親戚筋ということになる。彼らは少年時代から秀吉とねね(北政所)のもとで育った。
成長した彼らは、のちに"武断派"と呼ばれるように、猛将のイメージが強いが、大名として経済政策や治水事業などにも手腕を発揮している。
また、正則・清正とともに「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる加藤嘉明、平野長泰、脇坂安治、糟屋武則、片桐且元や長浜時代に見出された石田三成、人質として幼少期を長浜城で過ごした黒田長政(孝高の嫡男)も、秀吉子飼いの武将である。
豊臣秀吉に仕えた古参武将たちの生涯をたどってみよう。尾張の土豪(土地の有力者)だった蜂須賀正勝は、豪快なイメージとは違う交渉・調略上手の知将だった。四国攻め後に病死したが、子の家政に阿波が与えられ大名となった。
信長と対立した岩倉織田家重臣の子だった山内一豊と堀尾吉晴は、主家が滅んで流浪した後に信長配下となり、秀吉に仕えた。歴戦の将として活躍し、長浜や佐和山など要所の城主となった。吉晴とともに"三中老"と後世に位置づけられた生駒親正・中村一氏も、高松・駿府などの要所を任された。
一方で、精鋭部隊"黄母衣衆"の一員として長く秀吉を支えた神子田正治・尾藤知宣は小牧・長久手の戦いや九州攻めの失態で追放され、後に処刑されている。
江戸時代、豊臣秀吉は庶民のヒーローだった。秀吉の一代記『太閤記』が人気を博したからである。その形は伝記、読本、講談、歌舞伎、浄瑠璃などに発展し、"親しみ易く才気にあふれ、戦にも強い秀吉"が、一代の英雄として人々の心をつかんだ。その背景には、幕府への不満と破格の出世へのあこがれがあったようだ。
太閤記のもととなったのは、秀吉が御伽衆・大村由己に書かせた記録集『天正記』だ。これに触発され、太田牛一の『太閤軍記』、竹中重門(半兵衛の子)の『豊鑑』や川角三郎右衛門の『川角太閤記』が続いた。
そして、儒学者の小瀬甫庵がこれらに解説を加えた全22巻の本格一代記『太閤記』を成立させる。幕府が数度発禁を命じたほどの人気ぶりだったが、今に至る秀吉像を決定づけたのは、『絵本太閤記』7編84巻だ。平易な文章と豊富で本格的な挿絵、そしてストーリーが大ウケした。信長の草履を温めた話や墨俣一夜城などの創作話も、繰り返し語られるうちに史実として信じられていった。
更新:04月28日 00:05