
大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、豊臣秀吉と秀長兄弟の活躍が描かれているが、戦国時代のほかの兄弟をみると、固い絆で結ばれる者たちもいれば、いがみ合い、埋めがたい溝を抱える者たちもいた。力の優劣が命運を左右する戦国時代において、武将たちが見せた「兄弟のかたち」とはどのようなものだったのか。悲劇の結末を迎えた二組の兄弟、大友宗麟とその弟・大内義長と、織田信長とその弟・信勝(信行)の例を、作家の橋場日月氏が解説する。
※本稿は、『歴史街道』2022年6月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。
豊後の名門・大友宗麟の弟・義長は天文21年(1552)、中国地方の大々名・大内家の当主となった。前年の謀反で大内義隆を攻め滅ぼした陶晴賢が、義長を迎え入れたのだ。
この話があったとき、宗麟はためらったという。「晴賢の操り人形となるだけのこと。そのうえ頼る者もいない異郷で、弟は幸せになれるのか」というのだ。彼は弟を深く愛していたのだろう。
だが、当の義長は周防行きを熱望した。
「この話を断れば臆したかと誹られるでしょう。それは口惜しい。命など惜しくはございませぬから、どうか周防に行かせて下され」
たとえ傀儡でも、大名となれれば後悔はないというのだ。
宗麟もこれを聴き入れ、義長は関門海峡を渡って周防山口に入り、大内家当主となる。
しかし弘治元年(1555)、毛利元就が厳島の戦いで晴賢を討ち取ると、義長の運命は暗転した。彼は実家の兄・宗麟に援助を求めたのだが、時すでに遅し。宗麟は博多の獲得を優先し、元就との間で大内家の基盤の分け取りの合意を交わしていたのだ。
弘治3年、毛利軍に攻められた義長は自刃して果てる。辞世の歌は「誘ふ(う)とて何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」というものだった。
大内家当主にと誘われたことを後悔はしていない、時のめぐりあわせで嵐となってしまったために、自分を心配してくれた兄も、最後には大友家の発展を優先して自分を見捨てた。しかしそれで滅びるのも運命で仕方がない、と達観して死んでいったのだろう。
織田信長とその弟・信勝(信行)については、父・信秀の葬儀で、信長が異様な風体と粗暴な行動を見せたのに対し、信勝は折り目正しい衣装で上品に振る舞うという対照性を見せたとある。
父の信秀もこの信勝を溺愛したらしく、那古野城を信長に与えたあとも、古渡城・末森城と信勝を本拠地にともなって住まい、自分が病に倒れると、信長とともに信勝にも尾張の治政に参加させている。
政令が二途から出れば配下は戸惑い、対立を呼ぶ。信長と反りが合わず、出仕を拒否していた宿老の林秀貞が末森城付きの柴田勝家らと示し合わせて信勝を織田家督に擁立しようと画策したのだ。
信勝が信長の直轄地である篠木三郷を横領する動きを見せ、弘治2年(1556)に「稲生の戦い」が起こると、信長は寡勢で信勝勢を破ったものの、母の土田御前の取り成しで信勝を許した。
このあたり、信勝は甘やかされた過保護体質のまま育ってしまっていたのだろう。
弘治4年(=永禄元年。1558)、信勝が反信長派の家臣たちばかりを重用し、再び謀反を企てていると柴田勝家が信長に密告。信長は覚悟を決めた。
仮病を言い立てて清洲城内に籠もると、勝家は見舞いに行くよう信勝に勧める。信勝は疑うことなく清洲城へ赴いたのだが、信長の家来たちによって殺されてしまったのである。信勝はこの頃、家老の勝家を無視して側近に優秀な侍を配置していたのだが、これは中央集権化を図っていたということで、兄・信長と同じ専制体制を志向したと言える。
ある意味、似た者兄弟の悲劇ではなかっただろうか。
更新:02月11日 00:05