
太平洋戦争中の1944年、日本はドーリットル空襲以来、二度目の本土空襲を、九州の八幡に受ける。その際、日本を苦しめたのが、米軍の大型爆撃機B-29である。
"超空の要塞"と称されたB-29はなぜ造られたのか。一方、その脅威を目の当たりにした日本軍は......。ここでは、八幡空襲後に起きた、沖縄大空襲における両軍の攻防を元防衛大学校教授の源田孝氏が解説する。
※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。
1944年10月、マリアナ諸島の攻略を終えた米軍は、フィリピン侵攻を準備していた。これに先立ち米海軍は、フィリピンの日本軍を空から支援する航空基地がある、南西諸島を制圧することにした。
攻撃部隊は第3艦隊隷下の第38任務部隊であり、エセックス級空母9隻、インデペンデンス級軽空母8隻、戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦10隻、駆逐艦約58隻、艦載機計1081機からなる大艦隊であった。
一方、日本陸軍は第32軍隷下の4個師団、5個旅団が沖縄本島と八重山諸島の配備についていた。海軍は沖縄本島に沖縄方面根拠地隊を置いていた。しかし第32軍は、米軍の来寇はフィリピン侵攻が終わった1945年3月以降とみていた。
米軍が来襲する10月10日以前、南西諸島は本格的な空襲を受けたことが無かった。6月の八幡空襲を皮切りに、米軍のB-29による日本本土空襲が始まっていたが、沖縄では危機感が薄かった。
当時、沖縄では県民の日本本土や台湾への疎開が始まっており、那覇港や運天港には軍需物資や疎開民を運ぶ船舶が多数停泊していた。
沖縄は各地にレーダーサイトが設置され、沖縄本島には高射砲70門、高射機関砲50門が配備されており、防空航空機は沖縄本島北飛行場(読谷)に独立飛行第23中隊の三式戦闘機、徳之島に一式戦闘機「隼」、四式戦闘機「疾風」などがいた。
日本海軍情報部は、米軍の通信解析やパラオの監視所からの報告で、第38任務部隊がウルシー環礁から出撃していることを察知していたが、10月6日以降は見失っていた。日本軍は第38任務部隊を捜索するため哨戒飛行を行なったが、米軍は日本軍の哨戒機をレーダーで捕捉して、ことごとく撃墜していた。日本軍は、未帰還の哨戒機は悪天候が原因と安易に判断していた。
日本軍の不運は重なった。第32軍は10月10日に大規模な「兵棋演習」を予定しており、各司令官と参謀たちは9日には那覇に集まって、その夜は各所で宴会が行なわれた。そのため、10日朝は各部隊の指揮官が不在となり、対応が遅れる原因となった。また、「兵棋演習」が兵士には「演習」としか知らされておらず、高射砲の砲撃を見ても「実戦的な演習をしている」と受け止めた兵士が多く、住民も空襲を演習と誤解する者がいた。
さらに、日本軍のレーダーはもともと故障が多かったため、突如出現した多数のレーダー航跡は故障と見なされ報告されなかった。要するに、沖縄の軍民はともに米軍の攻撃を全く予想しておらず、完全な奇襲となったのである。
10月9日夜、米艦隊は発見されることなく、台風の後追で沖縄に接近した。10日朝は快晴であった。第1次空襲(午前6時40分〜8時20分)は、沖縄本島の北飛行場(読谷)、中飛行場(嘉手納)、そして伊江島飛行場に米艦載機が殺到した。本島にいた独立飛行第23中隊の戦闘機は離陸したものの6機が撃墜され、3機が不時着大破などで10機を失った。
沖縄空襲を知らせる電文は10日の午前7時に発信されたが、日吉の連合艦隊司令部に到達したのは1時間30分後であった。連合艦隊司令長官豊田副武大将はあいにく台湾に滞在中であったため、草鹿龍之介参謀長が代わりに指揮を執ったが、豊田長官も台湾から矛盾する命令を出して混乱を招いた。
第2次空襲(午前9時20分〜10時15分)は小禄飛行場、那覇港と運天港に停泊中の艦船が目標とされた。潜水母艦「迅鯨」、満洲国海上警察隊駆逐艦「海威」、敷設艇 「鷹島」、曳船「立神」のほか、魚雷艇13隻、甲標的4隻、駆逐艇6隻、伊号高速艇8隻、大発動艇18隻が沈没した。大型船舶は那覇港で5隻、瀬底島錨地で2隻を含む11隻が沈没している。小型船は107隻が犠牲となった。港湾付近の民家では火災が発生し、軍、警防団、学徒が消火活動したが、延焼は止まらなかった。
第3次空襲(午前11時45分〜午後0時30分)は、那覇市、名護市、運天港、渡久地港、与那原、泡瀬が目標となった。
第4次空襲(午後0時40分〜1時40分)と第5次空襲(午後2時45分〜3時45分)は、那覇市街を狙って焼夷弾攻撃が行なわれ、市内各所で火災が発生。台風の強風に見舞われて那覇市街は延焼し、火焰に包まれてしまう。那覇市民は退避を始めた。
本島以外の沖縄諸島各地も攻撃された。慶良間諸島では8回にわたり、延べ60の米軍機が漁船に機銃掃射した。宮古島では午前と午後に1回ずつ、各16の米軍機が飛来し、九九式襲撃機3機などの陸軍機9機と、徴用輸送船に被害が出た。石垣島には早朝に米8機が飛来した。久米島西方海域では徴用輸送船が沈没。大東島には米8機が飛来し、飛行場や海軍船を銃爆撃した。海軍徴用小型船2隻が沈んだほか、沖大東島付近で特設駆潜艇が炎上擱座した。
攻撃は奄美群島にも及んだ。奄美大島では3回、延べ45の米軍機が来襲して名瀬と古仁屋は焼け野原になった。徳之島では浅間飛行場が攻撃され、陸軍機14機が破壊された。奄美群島から八重山群島まで、陸海軍機合わせて47機が中破以上の被害を受けている。
人的損害も大きい。沖縄連隊区司令官井口駿三大佐をはじめ、軍人・軍属218人が戦死したほか、軍関係の民間作業員120人が犠牲となった。最も被害の大きかった那覇市の犠牲者は、255名にのぼった。奄美群島から八重山群島までの犠牲者総数は668人であった。この被害によって、住民の県外疎開が促進されることになる。
米軍は9時間にわたって5回の攻撃を行ない、出撃機数は延べ1396機に達したが、21機を失い、戦死者は9名であった。米軍は空襲を行なう一方、SB2C偵察爆撃機で沖縄の地形を撮影し、沖縄上陸作戦「アイスバーグ」の計画立案に必要な情報を得ている。
1944年12月、日本は米軍機が非軍事目標の市街地を攻撃したことが戦争犯罪にあたるとして、中立国のスペインを通じた外交ルートで米国に正式に抗議した。
しかし、米国は従来の解釈からすれば戦争犯罪に該当するとするも、これを認めると捕虜になったパイロットが訴追される可能性があることや被害実態が明らかでないことを理由に黙殺したのである。
更新:06月06日 00:05