歴史街道 » 本誌関連記事 » 水増しされた撃墜王・遠藤幸男の戦果「これでは、海軍の面子が立たない」

水増しされた撃墜王・遠藤幸男の戦果「これでは、海軍の面子が立たない」

2025年04月17日 公開

松田十刻(作家)

太平洋戦争中、日本の本土防空戦における最大の脅威は、アメリカ陸軍の大型戦略爆撃機B-29「スーパーフォートレス」(超空の要塞)であった。日本軍は、陸海軍ともに特性のある局地戦闘機を繰りだし、壮絶な戦いをくりひろげた。ここでは、B-29迎撃戦で撃墜王と称される遠藤幸夫(さちお)の戦いぶりを通して、本土防空戦の一端を紹介しよう。

 

遠藤幸男 大村基地に降り立つ

遠藤幸男が、撃墜王と称されるきっかけとなったのは、昭和19年(1944)6月16日未明、B-29による八幡空襲である。

八幡空襲では、陸軍四戦隊の活躍ぶりが報じられたが、海軍としても有効な手立てを打つ必要に迫られた。四戦隊が擁する二式戦(屠龍)は、海軍の「月光」と同じ双発戦闘機である。

折しも長崎県・大村基地では、佐世保海軍航空隊大村分遣隊が改編され、第三五二海軍航空隊として開隊する手筈が整っている。ところが、肝心の夜間戦闘機の熟練者がいない。佐世保鎮守府は、横須賀鎮守府に月光の訓練を担う分隊長の派遣を要請した。

これを受けた厚木航空隊司令の小園安名中佐は、最も信頼する遠藤中尉を分隊長とする派遣隊を、大村基地へ遣わした。遠藤はペアを組む偵察員の尾崎一男(一飛曹)と愛機に乗り、7月10日ごろ、大村基地に降り立った。ほかに2機の列機も無事に着陸した(整備員は汽車で移動)。

 

教官から第一線の分隊長へ

遠藤は、海軍飛行予科練習生(予科練)第1期生である。艦上攻撃機の操縦士として日中戦争に従軍。日米開戦後は教官を務め、昭和18年(1943)1月、第二五一海軍航空隊(以下、二五一空)に異動になり、二式陸上偵察機の操縦士になった。

5月、二五一空はラバウルに進出するが、遠藤は搭乗機のエンジン故障で不時着した際に脚を負傷し、入院生活を送る。二五一空には、二式陸偵の前身である十三試双発陸戦に斜銃(2連装20ミリ機銃)を装備した改造型2機が加えられた。

斜銃は、ラバウルの台南航空隊(二五一空の前身)で副長兼飛行長を務めていた小園が、敵の大型爆撃機に手を焼き、内地に戻った際に上層部にかけあって承認させたものである。半信半疑の上官を説得するため、零戦との模擬空中戦を演じ、斜銃の威力を証明してみせた操縦士が、ほかならぬ遠藤である。

改造型がB-17を撃墜する戦果をあげたことから、二式陸偵に斜銃を装備した「月光」が、夜間戦闘機として制式採用された。

退院後、遠藤は「月光」で奮戦する。9月2日、遠藤がソロモン諸島の前進基地バラレ島の指揮所にいたとき、来襲したアメリカの戦闘機F4Uコルセアが見張り台に接触して墜落、大破した。遠藤は破片を浴び、重傷を負う。

帰国すると、厚木航空隊木更津派遣隊(夜戦隊)に配属され、隊員を鍛錬した。昭和19年3月1日、帝都防空を担う三〇二空が木更津飛行場で開隊。木更津派遣隊は同空に編入され、遠藤は分隊長となった。

3月末、三〇二空は厚木基地に進出。月光のほか、零戦に斜銃を装備した零夜戦、雷電、彗星、銀河の戦隊が加わり、局地戦闘機航空隊(通称・厚木航空隊)の陣容が整う。

 

海軍で初めてB-29を撃墜した男 誇張された戦果

大村基地に派遣された遠藤は、三五二空(通称・草薙部隊)の訓練に励んだ。

8月10日夜、B-29 29機(24機とも)が長崎に襲来。遠藤は僚機を率いて迎撃に向かったが、会敵できなかった。

20日午後4時半、空襲警報の発令後、B-29 67機が九州上空に達し、そのうち6機が長崎上空へ向かった。

三五二空では、零戦(延べ33機)と月光4機を発進させた。海軍にとって初のB-29迎撃戦になる。 一方、陸軍は第一二飛行師団の屠龍、飛燕、四式戦「疾風」80数機が出撃した。

列機が被弾や故障で離脱するなか、遠藤はラバウルでB-17と交戦したときの戦訓を生かし、臨機応変に月光特有の上方銃と下方銃を使い分けた(後発型は上方銃のみ)。

反航戦とあって一撃離脱の攻撃法をとり、5機以上に20ミリ弾を放ち、遠藤はある程度の手ごたえを感じた。だが、敵編隊の機銃弾による火網は凄まじく、エンジンに被弾。遠藤機は洋上を飛行し、済州島に不時着した。

遠藤は駐屯する陸軍部隊を通じ、三五二空司令部に「敵大型機、中破3機、小破2機」と打電。ところが、当日の戦闘概報で「撃墜確実2、概ね確実1、小破2」と変更され、翌月の戦時日誌では「撃墜2機、不確実1機、中破2機」と戦果が過大になっていた。

背景には、第一二飛行師団が「撃墜23機(不確実11機)、撃破25機」の大戦果をあげたのに対し、三五二空は出撃した機数が少ないとはいえ、戦果に差がありすぎたことにある。

「これでは、海軍の面子が立たない」と考えた佐世保鎮守府など上層部が、意図的に水増ししたとみられる(渡辺洋二著『夜間戦闘機「月光」』)。

遠藤は本人の意思とは関係なく、海軍で初めてB-29を撃墜した殊勲者として一目置かれることになった。

 

マリアナ諸島陥落 B-29から東京を守る

9月中旬、遠藤と尾崎のペアは大村基地を去り、厚木基地へ復帰した。ほかの派遣隊員は大村に留まり、北九州で戦い続ける。

この間、日本が絶対国防圏と定めていたマリアナ諸島が、米軍(連合軍)の猛攻により陥落。B-29の発進基地が急造され、日本本土への空襲が時間の問題となった。

そしてついに、11月1日午後1時半ごろ、サイパン島から飛来したB-29の改造偵察機が東京上空に現われた。

主力部隊の雷電隊、零戦隊、遠藤率いる月光隊が緊急発進したが、上昇に時間がかかって追いつけず、10000メートル上空を悠々と飛行するB-29を歯嚙みしながら見送るだけだった(この日、遠藤は大尉に進級)。

24日朝、サイパン島を発進した111機のB-29のうち、故障機を除く94機による初の東京空襲が行なわれた。ただし、目標の中島飛行機武蔵製作所に達したのは24機で、被害は軽微にとどまる。

このとき、三〇二空の可動機すべてが出撃したが、白昼、高高度での戦闘は想像以上に過酷であり、まともに戦えなかった。米軍側の記録では、B-29の損失は2機。うち1機は二式戦(鍾馗)の体当たりで墜落したものである(もう1機は不時着水)。

これよりさかのぼる11月3日、遠藤は、東京の手前でB-29を撃墜する任務を帯び、八丈島に派遣隊隊長として進出。偵察員は西尾治(上飛曹)に替わった。派遣隊はわずか月光3機の戦力だったが、12月18日には、「1機撃墜、2機撃破」を三〇二空司令部に報告している。

27日、熱海上空で警戒中の遠藤機は、単機来襲したB-29に襲いかかり、伊豆半島伊東沖で撃墜した。

 

「敵11機発見、ワレコレニ突撃ス」

昭和20年(1945)1月10日、遠藤と西尾のペアは厚木基地に復帰した。

その前日、遠藤機は静岡県南方で中島飛行機武蔵製作所に向かうB-29 70機ほどの編隊を捕捉。うち1機を撃墜した。

遠藤の活躍ぶりは華々しく喧伝されたが、本人は誇張される記事に複雑な心境だったらしく、予科練時代の恩師に送った手紙に「戦果をおおげさに報ずる点、まったく迷惑いたしております」と本音をもらしている。

1月14日、B-29 73機が三菱・名古屋航空機製作所を目標に襲来。これを二一〇空と三〇二空が協同で迎撃した。

遠藤は午後2時52分、B-29を豊橋上空で捕捉。西尾に「敵11機発見、ワレコレニ突撃ス」と打電させた。6分後、「1機撃墜、大破……」が厚木基地の無線機に入ったが、それっきり連絡はなかった。

このとき、遠藤は被弾した愛機を渥美半島上空まで飛行させたうえ、先に西尾を脱出させ、続いて自分も機外へ飛び出た。ところが西尾は落下傘の紐が尾翼に切られ、墜死。遠藤は高度不足のため、落下傘が開き切る前に地上に叩きつけられた。

遠藤機の墜落は、陸軍の防空監視哨が視認していた。哨員らが墜落現場に駆けつけたときには、2人とも絶命していたという(発見場所は、現在の愛知県田原市神戸町)。

国民的英雄となっていた遠藤の戦死が、海軍省から発表されたのは3月16日。全軍布告のうえ、遠藤は中佐、西尾は少尉にそれぞれ2階級特進した。

遠藤機によるB-29の撃破数は16機(うち撃墜は6機ないしは8機)とされる。

海軍上層部の思惑から思いがけなく勇名を馳せた遠藤だが、その後は国民の期待を一身に背負い、撃墜王の名に恥じぬよう全身全霊でB-29に戦いを挑み、その末に果てた。

歴史街道の詳細情報

関連記事

編集部のおすすめ

最後まで負けを認められなかった日本軍...「マリアナ沖海戦」大敗の3つの理由

戸高一成(呉市海事歴史科学館〔大和ミュージアム〕館長)

空母・鳳翔~日本海軍航空隊の勃興から終焉までを見届けた艦

12月27日 This Day in History

日本海軍400時間の証言録・海軍反省会ダイジェスト【Web特別連載】

戸高一成(呉市海事歴史科学館〔大和ミュージアム〕館長)