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日本人として知っておきたい! 第一次世界大戦が勃発した真相

宇山卓栄

ヴィルヘルム2世

第一次世界大戦はヨーロッパで勃発したことから、日本人には遠くの国の出来事のようにも思える。しかし実際には、日本が第二次世界大戦に突入していく遠因ともなっていた。この大戦はなぜ起きたのか。世界で紛争が収まらないいまこそ、知っておきたい世界大戦勃発の背景をQ&A形式で解説しよう。

【宇山卓栄(うやまたくえい/著述家)】
昭和50年(1975)、大阪府生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。代々木ゼミナール世界史科講師を務め、現在に至る。テレビ、ラジオ、雑誌など各メディアで、時事問題を歴史の視点でわかりやすく解説している。著書に『「民族」で読み解く世界史』『世界「民族」全史』など、近刊に共著の『日本人が知らない!世界史の原理』がある。

 

Q そもそも対立の根源は何だったのか?

19世紀後半、イギリスはその経済覇権を新興のアメリカやドイツに奪われはじめました。世界の工業生産のシェアにおいて、1880年以降、イギリスはアメリカに1位の座を奪われ、20世紀に入るとドイツにも抜かれていきます。

18世紀から19世紀にかけて、イギリスは産業革命で最も成功した国でしたが、その成功モデルが根強く残り、アメリカやドイツに、産業構造の転換で遅れを取ってしまったのです。

一方、アメリカやドイツでは、国家主導で大規模な工業設備投資が行なわれ、各産業分野に独占的な巨大企業が次々と生まれ、国家経済を力強く牽引していきました。特にドイツでは、1871年のドイツ帝国の成立後、宰相ビスマルクによる各種の産業成長戦略が大胆かつ斬新に打ち出され、高度な経済成長を遂げていきます。

ドイツの産業資本が急速に成長すると、より大きな利益を求め、資本は国外へ向かい、対外的な軋轢を生むようになります。

さらに、1888年に即位したドイツ皇帝のヴィルヘルム2世が、産業資本の勢力に押され、「世界政策」という対外膨張政策を推し進めます。

ドイツの政策は、イギリスとロシアを刺激。また、オーストリアもドイツに倣って強硬化し、ゲルマン人優位を主張するパン・ゲルマン主義を掲げ、バルカン半島へ進出、ロシアとの対立を招きました。

ロシアはドイツとオーストリアに激しい反感を抱き、フランスに接近。1891年、露仏同盟を結び、ドイツと敵対します。

これらをうけ、ドイツ・オーストリア陣営、ロシア・フランス陣営と大きな二つの陣営が現われました。この両陣営の対立が火種となり、第一次世界大戦へと繫がっていくのです。

 

Q どのようにして、第一次世界大戦は勃発したのか?

イギリスは19世紀、超大国として世界に君臨し、他国と同盟を結ばず、超然としていました。その状況は「光栄ある孤立」と評されます。

しかし、同世紀末、前述のようにイギリスの覇権に陰りが見えはじめると、もはや超然とした地位を保つことはできず、ドイツ・オーストリア陣営、ロシア・フランス陣営の二大陣営のどちらに付くか、重大な決断を迫られました。

そんなイギリスが「光栄ある孤立」を捨て、最初に組んだ相手は日本でした。1902年、日英同盟が締結されます。日本は1868年、明治維新を成し遂げ、近代化へ邁進していました。イギリスは極東アジアに進出するロシアの動きを封じ込めるため、日本を支援しようとしたのです。

ドイツのヴィルヘルム2世は、こうしたイギリスの動きを歓迎しました。ロシアを警戒するイギリスがドイツの陣営に入ることを期待していたからです。しかし、ヴィルヘルム2世の期待は裏切られることになります。

確かに、イギリスは当初、バルカン半島をめぐる利権闘争である東方問題などでロシアと激しく対立した経緯から、ドイツ支持に傾いていました。また、イギリスに次いで、アジア・アフリカに広大な植民地を有するフランスの脅威もあり、イギリスはドイツと組み、フランスを包囲して、その権益を奪うという構想も描いていました。

しかし、今やドイツの台頭が著しく、ロシアやフランスよりもドイツを脅威とする捉え方がイギリス国内で大勢を占めていました。また1905年、日露戦争でロシアが敗北すると、ロシアへの脅威が薄れ、イギリスは明らかにドイツを敵対視するようになります。

ドイツの対外拡大政策の推進は、イギリスの植民地権益を侵すもので、対立は避けられませんでした。

こうしてイギリスは、ロシア・フランス陣営に接近し、三国協商を完成させ、ドイツを包囲することになり、「イギリス、フランス、ロシア」陣営(のちの連合国)と「ドイツ、オーストリア」陣営(のちの同盟国)が激突へと至るのです。

一方、バルカン半島では、ロシア・セルビアの掲げるパン・スラブ主義と、ドイツ・オーストリアの掲げるパン・ゲルマン主義が激しく対立。こうした緊迫するバルカン情勢は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれます。

1914年、ボスニア州都サラエボで、セルビア人青年がオーストリア皇太子夫妻を暗殺しました(サラエボ事件)。これをきっかけに、オーストリアがセルビアに宣戦布告、セルビアの背後にいるロシア、オーストリアの背後にいるドイツも動きはじめ、いよいよ第一次世界大戦の幕開けとなるのです。

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