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西郷従道「切腹覚悟で軍艦を買え」 国家破滅を防いだ“ルール無視”の決断力

神野正史(元河合塾世界史講師/YouTube神野の世界史劇場「神野塾」主宰)

戦艦三笠

「きまり」は守るべきものであるものの、時にはルールを破る勇気も必要ーー。
西郷隆盛の弟・西郷従道は、予算が足りず旗艦「三笠」を購入できそうにないと知るや、驚くべき行動に出ます。
法や慣習を遵守することにこだわって国を滅ぼしかけた人々との対比を通じ、ここぞという時は臨機応変に決断すべき「真の覚悟」を問い直します。 

※本稿は、神野正史著『最強の教訓!世界史 まさかの結末に学ぶ』(PHP文庫)より一部抜粋・編集したものです。

 

名前を間違えられたが、「まあ、よか!」とそのままに

「西郷(せご)どん」の愛称で知られる幕末の志士「西郷隆盛」はあまりにも有名ですが、本稿の主人公はその弟に当たる人物、西郷従道(じゅうどう)です。

兄弟には皆「隆」の字が付いていて、彼も本名は「隆道」だったのですが、明治に入って太政官(政府)に名前を登録する際、役人が聞き間違えて「従道」となってしまいました。
すぐに間違いに気づいたものの、本人は「まあ、よか!」と気にも留めずそのまま「従道」と名乗ったという磊落(らいらく)な人物。

御一新したとはいえ、当時の国際情勢は厳しく、とくに神洲(日本のこと)防衛のための海軍は日本にとって重要な意味を持ちました。
1885年の内閣発足に伴い、その初代海相となったのが西郷従道です。

彼は自分が目をかけていた山本権兵衛を自分の側近として置き、彼に実務を任せて自らは鷹揚に構えます。
こうした西郷・山本コンビでなんとか「日清戦争」は乗り越えたものの、一難去ってまた一難、すぐに今度はロシアの脅威が迫ってきます。

 

「三笠」がなくばロシア艦隊に勝てぬ

これに備えるため、西郷海相は「海軍拡張計画」を実施。

── 現状の海軍力ではロシア海軍には到底かなわぬ!
ここは大規模な海軍増強が必要不可欠。
すでに建造中の戦艦2隻に加え、さらに戦艦4隻・巡洋艦6隻を建造する!

これを「六六艦隊」といいますが、あまりにも大規模な計画であったため、彼の任期中に完成させることあたわず、彼は海相の地位を山本権兵衛にバトンタッチして、事後は彼に任せることにします。

しかし、山本権兵衛が西郷の仕事を引き継いでほどなく問題が発生しました。
「六六艦隊」の完成には旗艦「三笠」の調達が必須でしたが、その購入予算が尽きてしまったのです。
山本は西郷に相談に行きます。

── 閣下。
困いこちなりもした。(困ったことになりました。)
「どげんした?」
山本海相が事情を話すと、西郷は眉間にしわを寄せます。
それはまずい。
旗艦「三笠」がなくば「六六艦隊」の完成なく、「六六艦隊」なくばロシア艦隊(バルチック艦隊)に勝てぬ。
バルチック艦隊に勝てねば日露戦争にも敗れ、日露戦争に敗れれば神洲は露助の植民地にされる。

「三笠だけは何(ない)としてん手に入れんにゃならん。」 
── どげんしもんそ。(どういたしましょうか。)

 

西郷従道、「まさか」の行動

ひとしきり思案したあと、西郷は山本を見据えて口元を緩ませます。

「権兵衛よ。
あい(あれ)があったじゃろ? あいを使え。」
── あいとは?
「償金特別会計じゃ。」

「償金特別会計」というのは先の日清戦争で清朝から受け取った賠償金(下関条約で定められた賠償金2億両(テール)と遼東半島返還の償金3000万両で合計(当時の日本円で)3億5000万円ほど)のプールです。
ここから議会の審議を経て然るべき予算へと振り分けられていました。

── いや、そのためにはまず議会に諮らねばならず...
「馬鹿もん。
議会が首縦に振っもんか。流用すんじゃ。」

── そげんこつしたら議会から追及されもんど。
「そんときは腹ァ切ればよか。
おいどんとおまんさあ、腹ァふたつで軍艦が買えっなら、安かもんじゃろが。」

こうして、2人の"覚悟"により「三笠」が手に入り、それが「日本海海戦」の勝利につながっていくことになりました。
もし、西郷従道が「児島惟謙(これたか)」のようなガチガチの頑固頭であったならば、このとき日本はロシアに亡ぼされただけでなく、ロシア人の植民が進み、今ごろ日本列島に住んでいたのは日露混血民になっていたことでしょう。

 

国家存亡の危機に理想論?

突然登場した「児島惟謙」という人物について、少し敷衍しましょう。

じつは、遡ること日清戦争直前の1891年、当時露(ロシア)皇太子だったニコライ(のちのニコライ2世)が訪日したことがありました。
当時はちょうどロシアが「シベリア大陸横断鉄道」着工を発表したばかりのころで日露関係に緊張が走っていたころ。

当時、日本はまだ産業革命すら起こしておらず、ロシアなど天地がひっくり返っても勝てない相手でしたから、なんとしても皇太子ニコライ殿下にはご機嫌うるわしう過ごしていただき、"穏便に"事を運びたい。
そのため皇太子ニコライは各地で歓待を受け、下にも置かない扱いを受けて彼も上機謙だったのですが、滋賀県の大津を観光していたときに事件が起こります。

皇太子ニコライ一行を警備していた「津田三蔵」なる巡査がとつぜん帯刀していたサーベルで皇太子ニコライに斬りかかり、大怪我を負わせてしまったのでした。
これがかの有名な「大津事件」です。

これには日本中が驚天動地。
これを口実にロシアからどんな無理難題を突き付けられるかしれず、それがこじれれば開戦すら視野に入りかねない大事件です。
今、開戦となったら100.0%、日本に勝ち目はありません。

政府中枢がうろたえたのも当然。
伊藤博文・山縣有朋・大隈重信ら元勲を初め、首相松方正義・内相西郷従道・農相陸奥宗光・逓相後藤象二郎・外相榎本武揚現職閣僚も一斉に「津田三蔵」に死刑を求めます。
これに断固反対したのが、当時司法のトップだった「児島惟謙」でした。

彼は「法治国家として法は順守されなければならない」「謀殺未遂は刑法292条により死刑にできない」と正論で応じます。
しかし、政府としてはそんな建前・理想論・きれい事ごとなどどうでもいい、何が何でもロシアに溜飲を下げてもらわなければ国家の存亡に関わります。
後藤象二郎など、「ただちに津田を拉致して射殺せよ!」と息巻いたほど。

 

「原理原則」を墨守する愚

まあ、後藤の主張もチト感情的に過ぎますが、しかしこのときの日本は、
「法を守って国家・民族を亡ぼす」か、
「法を破って国家・民族の存続を図るか」の二者択一を迫られたわけですから後藤の心情も理解できます。

この二者択一なら、まごうことなく後者が正しいに決まっていますが、世の中にはこんな簡単な道理も理解できない人がじつは多い。
古代ギリシアにおいて「悪法も法なり」と言って自ら毒杯を仰いで死んだソクラテスを賛美したり、戦後の日本で闇米を拒否して餓死した山口良忠を美化する方たちなどはその典型でしょう。

そもそも「法」というものは、人間が人間らしい秩序だった社会生活を円滑に送るために社会に注された"潤滑油"にすぎません。
"潤滑油(エンジンオイル)"は使っているうちに真っ黒に劣化するし、たとえ新品でも不良油(オイル)で使い物にならないこともあります。

不良油(オイル)だったり劣化してきたら、誰しもエンジンが壊れないうちに新品の油(オイル)に交換するように、「悪法(不良オイル)だったり時代に合わなくなってきた(劣化オイル)ら、秩序(エンジン)が壊れないうちに法改正(オイル交換)して秩序(エンジン)を守る」のは当たり前のことです。

しかし、こんな当たり前のこともカチカチの頭で理解できず、日本を亡ぼそうとしたのが「児島惟謙」なのですが、後世、彼のことを「護法の神様」と讃える者が続出する惨状。
法を守って国が亡びたのでは、本末転倒だということすら理解できない。

何事も根本・本質を忘れず、臨機応変に対応することが大切で、「原理原則」にこだわり、これを墨守することだけを考える者は愚者の烙印を押されます。

 

グルーシーの愚挙

政治も外交も経済も軍事も、そして人生も同じ。
ナポレオン時代の最後の元帥となったエマニュエル・グルーシーもそうでした。

ナポレオン最後の決戦となった「ワーテルローの戦」において、グルーシーはナポレオンから「プロイセン軍を追撃せよ」との命を受けていました。
しかし、その任務中、ワーテルロー方面から砲声が聞こえてきます。

当時、軍には「砲声に赴(おもむ)け」という戦訓(マキシム)があり、「どこでどんな任務に就いていようが、砲声が聞こえてきたら、何を置いてもただちに砲声に向かって援軍に駆けつけろ」というものです。

確かにグルーシーはナポレオンから「プロイセン軍追撃」の命を受けていましたが、砲声が聞こえてきたならただちに駆けつけなければなりません。

諸将もグルーシーに訴えます。
「閣下!こんなところで何を悠長に構えておられるのです?
あの砲声が聞こえるでしょう?
我々も直ちに出撃せねば!」

しかし、食事中だったグルーシーは落ち着いた様子で答えました。
── 余は陛下からここを守るように仰せつかった。
だからここを死守する。

ここでグルーシーがワーテルローに駆けつけていれば、ナポレオン軍の勝利だったと言われています。

「言われたことを言われたとおりにこなす」ことなど犬畜生でもできます。
「状況・現状・現実に合わせて今何をなすべきかを考え、臨機応変に動く」ことは人間にしかできないことであり、我々は人としての矜持を持って生きたいものです。

プロフィール

神野正史(じんの・まさふみ)

元河合塾世界史講師/YouTube神野の世界史劇場「神野塾」主宰

学びエイド鉄人講師。ネットゼミ世界史編集顧問。ブロードバンド予備校世界史講師。1965年名古屋生まれ。立命館大学文学部西洋史学科卒。自身が運営するYouTube神野の世界史劇場「神野塾」は絶大な支持を誇る人気講座。また「歴史エヴァンジェリスト」としての顔も持ち、TV出演、講演、雑誌取材、ゲーム監修なども多彩にこなす。

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